桂島・石浜の昔話

桂島・石浜の昔話

松島明神と藻根島の事(桂島)

太古、塩土翁の神、民に漁塩農桑の事を教え玉い、鹿島、香取の二大神が日高見の国御征服のとき、同時にこの地方に御降り、塩釜の浦にても漁農煮塩の道を民に教え玉いしとき、塩をお焼になる材料たる海草を、この桂島の藻根島において、所属の神たちをして採取せしめ玉いしより、藻根の称ができたのであるという。
また、澳津比古ノ命、澳津比壱ノ命も同時に御降りありて、塩を焼く竈や、材料の採取などまで塩土翁ノ神を助けて御力を尽くされ、この島にもしきりに御渡りありて採藻の御指図などされた御神徳を慕いて、松崎という岬に澳津彦、澳津姫二神を祀り、これを松崎大明神と崇め祀り、鹽竈神社の十四末社に数えらるるなり。

今は松崎の社地は、参道崩壊したために、白碕山に移し祀られ(元文年中なり)、明治維新後において、社号を桂島神社と改称されているが、この神社の起源はすこぶる古く、その文献がないが、太古からこの地に祀られたのであるまいか。
大藻根、小藻根の名称起源につき別説あり。それは昔時、桂島と代ヶ崎浜で境界の争議が起こり、代ヶ崎浜の主張は、大藻根島と桂島本島を分劃せる多度津水道をもって境とすべきなりといえるに対し、桂島の主張は、鐘島水道をもって境界とすべきものであると、たがいに主張し、遂にときの領主(伊達氏以前の領主)に公訴におよび、桂島の主張が勝訴となって鐘島水道を境としたのであるが、その時、しばしば言(ものいい)せし島であるから言(ものいい)島と呼び、大を大言(おおものいい)、小を小言(こものいい)と呼ぶに至ったとの説も伝わりおるが、これは附会の説で、神代において煮塩の藻を多くはこの海で採取したので、藻根島の称呼が起こったのである。

地方では「もね島」と昔から呼んでいる二島に大言、小言の字を冠すのは、最も誤れるものというべし。

大藻根島・小藻根島は桂島の西、すぐ近くの赤い部分。東側の大きい方が大藻根島、小さい方が小藻根島です。

黄色の場所に桂島神社(松崎神社)があります。

藻根島は、西の山展望台から真正面に見えます。島の向うに煙突が見えますが、これが代ヶ崎にある火力発電所です。2枚目の写真が鐘島。市営汽船からもみることができます。
黒い部分が七ヶ浜町でそこに訴訟の相手方となった、代ヶ崎があります。青の部分が鐘島です。訴訟の内容は、鐘島の西側の線(鐘島水道)を境にするか、桂島と藻根島の間の線(多津度水道)を境にするかということ。そこから取れる海産物の権利がかかっているのですから、“おおごと”です。
「大昔に神様が塩釜の人達に塩の作り方を教えてくれた」とありますが、鹽竈神社の末社、お釜神社で毎年7月に藻塩焼神事として残っています。
詳しくは塩竈市観光物産協会のホームページ(外部リンク)をご参照ください。

雨降石のこと(石浜)

石浜地区の畠中と呼ばれるところの上部、平森と津森国有林の境界線頂上の嵯峨地に、3個の3尺ばかりの石があります。その中に、笠のような形をしている石が、雨降石と呼ばれています。
いつの時代からそう呼ばれているかは分からりませんが、旱魃(かんばつ)の時、その石を叩くと必ず雨が降ると言い伝えられ、日照りの続く年には、付近の村落からこの石を叩きに来島する人が、今でもあるそうです。

石浜の雨降石は、維新後、物質文明、科学的進歩の道程上忘れられていましたが、明治40年頃、松島町北部の人が、日照りに困り、古い古い伝説を知って、この石を叩きに来島しました。島の人達も、この伝説を思い出し、それがきっかけとなり、雨乞いのため、わざわざ来島する人が増えたのだそうです。

このような信念は、多くは迷信から来るものでしょうが、旱魃で稲が枯れたり井戸水が枯れたりするなか、万事尽した後は、天に祷るよりほか無いのですから、「迷信」と片付けるわけにも行かないのでしょう。
そもそも、この説の起源は、大昔、石浜の人達が、相州雨降山(大山とも阿夫利山とも呼ばれる)大山石尊大権現を尊信して、山上にこれを祀る山の神、すなわち大山祗ノ神を崇拝したのが元で、相州の雨降山は、頂上がいつも雨霧が降っていて、登山崇拝者の浄衣を湿し、その神体は1個の大きな巌石を祀って石尊大権現と称して山の神を祀っており、関東では霊場として大山詣として参拝者が多かったのです。
それを、石浜の信者が、この場所に石尊大権現の山神を勧請してここに祀ったそうです。
こうして、樹木の濫伐を戒め、杣(そま:木を切る人、きこり)が入林するのを禁じ、木を切ると祟りがあるとして戒めました。
毎年、年末に門松用の松などの木を切るのにも、他の島に行って切る風習があったそうです。
「神様に、木を切らないことを誓うならば、蝮を住まわせない。」との言い伝えもあり、石浜・桂島には今も蝮は住んでいません。いつの時代かに、杣(そま)を蕎麦(そば)と替え、蕎麦も栽培しなくなったそうです。

現在、石浜には、「石浜神社」があります。
雨降石から北西の位置に祀られてありますが、祭神は木ノ花咲耶売命(大山祗神の女)、花園法皇、聖徳太子の三柱で、山の神三社と呼ばれています。
この社は旧本石浜と呼ばれる場所の岬角上にあり、文安年中、中屋敷善三郎という人の祖先が氏神として祀ったのを、宝暦9年、中屋敷善三郎をはじめとする地区の人達が産土神として崇め、社殿を造営して祭祀したそうです。
雨降石に祀れる石尊権現の方は、社殿が無いために崇敬が薄くなっているのではないでしょうか。
いずれにしても、山の神、雨降石尊権現になにか因縁があるのだそうです。

雨降石は、桂島で一番標高の高い場所にあります。

標高約50mということもあり、眺望も中々です。

おじゃらの奇談(石浜)

明治の初めごろから塩竈の外港として、経済文化の中心が石浜港に集まり、貨物船の出入りが日増しに盛んになってきました。
船乗りたちも、全国から石浜に集まってきて、肝煎の高橋安吉さんの世話になっていました。
肝煎は出入船の取締りやら、船員の雇入れやら、海事のことまで任されていました。

この石浜に、「せんちょう浜・おじゃら浜」という、むかし、火葬を行った場所があります。
他国の者が亡くなったりすると、必ずここで火葬にしたということです。
昔、海幸丸という船が、航海中に、三河の人で仙吉という船乗りが、釜石沖で急死してしまいました。
数日後に、仙吉の死体をのせた船が、石浜港に入ったという届けが肝煎のところにきて、肝煎高橋安吉方で一切の手続きを済ませると、瑞厳寺から和尚さんを呼んで、お葬式の用意をしました。
仲間の船員たちみんなで、火葬の準備も終わり、親しかった權吉と銀蔵の2人が、火葬の世話をすることになりました。
二人は一晩中、線香をあげ、火葬のための薪を焚き続けました。
その晩は、静かな晩でしたが、薪や芝の燃え盛る青白い炎、死体の焼ける異様な匂い、その間を黒い煙が渦巻いて、まるで地獄絵のような恐ろしい光景でした。
それでも、2人は、仲の良かった仙吉のために口々に念仏をとなえながら、一心に薪を燃やしていました。

そのうち、夜もだんだん更けて、時間もたったので2人は、
「もうそろそろ焼けだんべなや。薪をたくのはやめでもいいんでねぇがや。」
と、話していた時でした。
今まで青い炎を上げて燃え盛っていた火の中から、突然、仙吉が全身の火の粉をふりはらいながら、ものすごい形相で立ち上がり權吉めがけて、かぶさるように抱きついてきたのです。
權吉はあんまりぶったまげてしまって、口から泡をふいてひっくり返ってしまいました。
そばにいた銀蔵も、腰が抜けてしまって、真っ青になってがたがたふるえているばかりでした。
そして、2人とも何もかも分からなくなって、気を失ってしまいました。

翌朝早く、仙吉の骨を拾いに来た村人たちは、「あーっ!」といったきり、ただぶるぶるふるえながら、互いに顔を見合わせているばかりでした。
それもそのはず、とうに骨になっているはずの仙吉と、火葬しに行った權吉と銀蔵の3人が、その場にぬだばったまま、気絶していたのですから。
その後、權吉と銀蔵は“うんけやみ”して、2人とも半年ばかりは寝たきりであったということです。

地元では、この浜を「小沙羅(おじゃれ)の浜」と呼んでいます。

小沙羅(おじゃら)浜は、桂島海水浴場と鬼が浜の間にある浜(赤丸部分)です。

おじゃら浜は、観光パンフレットによると「潮が引いていればたどり着ける」とあります。
写真右のとおり、潮が引いているとギリギリ桂島海水浴場(写真の奥の方)から来ることができます。

江戸時代、浦戸は交通の要所であり、千石船などが全国から集まって来ました。
当時は、現在のようなエンジンのある安全な船の旅ではなく、ある意味、風等の気象条件によって、時間も航路も変更を余儀なくされる、冒険的な部分もあったのでしょう。航海の途中になくなる方も少なくなかったのではないでしょうか。

※「肝煎」とは、“村長”のこと。高橋安吉さんは実在の人物で、浦戸村の村長を明治24年から10年間お勤めになった方です。

鬼が浜の鬼せいばつ(石浜)

石浜には、鬼が浜(おにがはま)・首浜(しるしはま)・頭崎(かしらさき)という地名が残っておりますが、これらについては、たいそう面白い話が伝えられています。

昔々、鬼が浜に毎夜の様におにが現れて、畑を荒らしたり、女・子供をいじめたりするので、島の人たちは大変恐れていました。
このままでは、島は鬼に占領されてしまうに違いない、と思うと気が気でなく、村の人たちみんなが集まって、鬼退治の相談をすることになりました。
「こう毎晩毎晩鬼に荒らされては、おっつけこの村はつぶれてしまうぞ。なんとかして鬼を征伐しねばなんねぇ。なにかいい方法はねえもんだべが。」
みんなは、額を集めていろいろと相談しましたが、なかなか名案が浮かびません。

そのうち誰というとなく
「村の力自慢の若い衆が、みんなで力を合わせて、鬼を征伐したらどうだべなや。」
ということになり、元気のいい若者十数人を選んで、鬼退治の計画をしました。
若者たちは、夕方から畑の中に隠れていて、鬼が出てくるのを、息をこらして待っていました。
日が沈んであたりがうす暗くなると、どこからともなく、ズシーン、ズシーンと地ひびきを立てながら、ものすごい赤鬼が目をぎらぎら光らせて出てきました。
あまりの恐ろしさに、若者たちはふるえ上がってしまいました。
その中のひとりの勇敢な若者が、思い切って、
「それっ、びくびくしねえで、やっつけろっ。」
と、叫びながら、とびかかって行きました。
他の若者たちも、手に手に鍬や刀や棒や竹を持って、三方からわあっと取りかこみ、力の限り戦いました。
そうして、とうとう若者たちは鬼を生け捕りにしました。

村の人々が、こわごわ周りを取りまいて見ている中で、若者の一人が刀を振り上げて、
「えいっ。」
とばかりに、鬼の首を切り落としました。
すると、鬼の首は地面に落ちないで「壺の台」(現浦戸二小)を飛び越え、首浜まで飛んで行き、血しぶきをあげながらどさりと落ちました。
それを見ていた村の人たちは、おどろき恐れて真っ青になり、首浜まで走っていきました。
そして、この首を、海水できれいに洗い清め、ねんごろに弔って「頭崎」(今のかささき)に埋めたと言い伝えられています。

現在では、頭先の供養をする人もなくなってしまいましたが、このことがあってから後は、村人たちの供養は、長い間続いたということです。

鬼が浜は、桂島海水浴場の東隣にある浜(赤線部分)で、外洋に面した水のとてもキレイな浜です。

現在浦戸二小がある「壺の台」(赤丸部分)は、桂島の中央に位置する高台で北に松島、南に七ヶ浜から太平洋と眺めも素晴らしい場所です。(ここから見る七ヶ浜・火力発電所方面の夜景は結構穴場です。)

鬼が浜は、地元の方には学校浜と呼ばれ、小学校の海水浴場として使用されていたことから、こう呼ばれるようになったとのこと。この浜で、野球をやったという話もよく地元の方に伺います。
もともとは、写真右側の消波ブロックのあたりまで、広い浜があったのでしょう。