寒風沢島の文化財

寒風沢島の文化財

寒風沢造艦の碑
(塩竈市指定・有形文化財・昭和62年2月1日指定)

この碑(縦2.3メートル横1.2メートル)は、国防上の必要から仙台藩が幕末初めて西洋式機帆船(2本マストのトップスルスクナー型)を建造した場所、浦戸寒風沢に建っています。
仙台藩(13代慶邦)の命により、三浦乾也が東北で初めて西洋型軍艦を建造したことを記念し、その門人たちにより建立されたものです。
この軍艦「開成丸」建造にあたり、寒風沢に造船所を造り小野寺鳳谷の監督のもと安政3年8月26日着工、翌年7月14日藩主臨席のもと進水し、その後艤装工事を経て11月完成、同年12月から正月明けにかけて寒風沢~気仙沼間の試験航海に成功しました。

開成丸:全長110.0尺(33.33メートル)幅25.0尺(7.58メートル)深さ14.5尺(4.39メートル)マスト高さ105.0尺(31.82メートル)

十二支方角石
(塩竈市指定・有形文化財・昭和62年2月1日指定)

寒風沢の日和山にあるこの方角石は、十二支が刻まれた円柱形をなし、直径45cm高さ82.5cmと他所に類を見ない堂々としたものです。
奉献者が一般の船頭、廻船問屋とは異なり幕府より差遣された役人(木村又兵衛正信)であることも珍しいそうです。

絵馬「鮭を運ぶアイヌ」
(塩竈市指定・有形民俗文化財・平成10年7月1日指定)

寒風沢の神明社に奉納されていたこの絵馬は、親子と思われる二人のアイヌが鮭を持ち運ぶ姿を描いたもので、大きさは縦140センチメートル、横68センチメートルです。
絵の左側に「藤原高次」の名前と花押があります。
制作年代や作者については不明ですが、江戸時代中期から後期にかけて作製されたものと推定されています。
寒風沢島は、江戸時代から明治時代にかけて廻船の中継港として栄えた歴史がありますが、神明社は船員の厚い信仰を集めたと考えられ、絵馬は三陸沿岸の港や北海道との交易を裏付ける資料としても貴重です。

現在は、東北歴史博物館に保管されています。
塩竈市本町の、壱番館4階(市民図書館)タイムシップ塩竈に複製品が展示されています。写真はこの複製品です。

しばり地蔵

寒風沢港が繁栄していた頃、島内には遊郭があって、船出しようとする男たちを引きとめようと、遊女たちがお地蔵様を荒縄で縛り逆風祈願したと伝わっています。
地蔵尊とされていますが、盧遮那仏であると思われます。

化粧地蔵

作者や作られた年代とも不明であるが、古くからこのお地蔵様の顔に白粉を塗って祈願すると美しい子宝が授かると言われており、今日なお、何時も化粧が絶えないと言われています。
化粧地蔵がある、松林寺には、「延命地蔵」「坂本玄順の墓」「六地蔵」もあります。

六地蔵

1枚の岩に二体づつ彫ったものを三枚並べて、その上に長い石で屋根を載せています。
仏教によると、人は死後生前の行いによって「地獄道、修羅道、餓鬼道、畜生道、人道、天道」の六道に送られると考えられています。
この六地蔵は村境や辻にあって、それぞれの道にいる人間にあまねく慈悲をたれるといいます。

神明社

建築年代を直接的に証するものがなく、恐らくは江戸時代中期、今から約250年前の社殿建造で、千木・勝男木を載せた「流れ造り」としては珍しい様式を有しています。
応仁年間、楠氏の遺臣が寒風沢に来島し、定住して稲荷神を敬神して「洲の崎稲荷」又は「宇南稲荷」と称していましたが、後年伊勢宮と合祀して神明社と改めたという由緒があります。

百万遍供養碑

江戸時代、寒風沢は御城米の積出し港として賑わい、寒澤寺に代々名徳の僧が住み、海上安全その他諸々の祈願が行われていました。
百万遍の供養碑(縦140センチメートル横85センチメートル)もこれの証です。
現在も信仰深い島民によって百万遍の念仏が行われてます。
なお、同島には「二百万遍の碑」も残っています。