寒風沢島の昔話

寒風沢島の昔話

古下駄の化けた話

昔々、寒風沢の人たちが、元屋敷に住んでいた頃の話だ。

ある年のこと、夜中になると、人家の立ち並んでいる街道を「鼻いでえ、鼻いでえ。」と、言いながら、なんとも不思議な声でうなって歩くものがいた。
次の晩も、その次の晩も気味の悪いうなり声が続くものだから、村の人たちは寄るとさわるとその話になって、「おっかねえな。いったいなんだべ。」と、大さわぎになった。

そこで、元気のいい若いもん5・6人が相談して、その化け物の正体を見届けることになった。
夜中になるのを待っていると、案の定真っ暗な街道を、「鼻いでえ、鼻いでえ。」といううなり声がこちらに近づいてきた。
「そら来たぞ、逃がすな。」
いっせいに外に飛び出して見たところ、声はするが姿はさっぱり見えない。
「どうした、どうした。」
と、きょろきょろしていると「鼻いでえ、鼻いでえ。」と、またうなりだした。
今度は、各々竹の棒を持ってその声のするあたりをめちゃくちゃに引っ掻き回した。
「あっ、いたぞ」
「こっちもだ」
「こらっ」
大騒ぎしながら竹の端にさわったものをよくよく見たらば、板片だの古縄の切れ端ばかりで、化け物らしいものはどこにも見つからない。
うなり声もしなくなってしまった。
がっかりしてお互い顔を見合わせてあきれていると、また3~40間向こうの方で、「鼻いでえ、鼻いでえ。」と、声がした。
「今度こそ捕まえろっ。」
と、皆で走って行ってみたが、やっぱりなんにもない。さんざん馬鹿にされた若いもんたちはすっかり腹を立てて家に帰って寝てしまった。

それから何日かたって、その時の若いもんの一人が夜の浜の藪のそばを通りかかると、中から「わやわや」と人の声がした。
「こんなどごで何してんだべ。」
と思って、そっと近づいて聞いてみると、どうも普通の人間の声と違うようだ。
なんとも不思議な声で歌を歌ったり、踊りっこも踊っているようだ。
若いもんはすこしばかりおっかなかったが、そろそろと声の方に近寄っていってじっと息をこらして聞いていると、こんなうたの文句が聞こえてきた。
「古みの 古がさ 古だいこ つづいて 古げた 古わっぱ どんどん ばさばさ、ばっさ ばさ」
大そう調子よく歌いながら楽しそうに踊っていたが、突然その中の一人が、「なんだが今夜は気分がのらねぇ。どうもおがしな気配がすっから、もうやめろ。」と、叫ぶと、歌もおどりこもピタッとやんで、しいんと静まり返ってしまった。
立ち聞きしていた若いもんは、にわかにおっかなくなって家に逃げ帰ると、ふとんをかぶって寝てしまった。

さて、次の日になると若いもんはどうにも我慢できなくなって、友達のところにとんでいって昨夜のことをみんなに話して聞かせた。
そして、夜になるとこの間の仲間たちと連れ立って昨夜の場所に行ってみた。
すると、藪の中には、波で打ち上げられた古みのだの古だいこの胴だの古げたや古わっぱなどがたくさん集まっていた。
そして、そこから少し離れた所には、片方の鼻のかけた大きな古げたがころがっていた。
「さては、この古げたや古みの笠どもが化けて出て来たんだなや。使っていらなぐなったもんでも、そまづにあつかうもんではねえなぁ。」と、言いながら、みんなでそれらを1ケ所に集めてすっかり焼いてしまった。
その晩からもう、
「鼻いでえ、鼻いでえ。」
のうなり声も藪の中の歌や踊りこも聞こえなくなったと言うことだ。

寒風沢の元屋敷(赤丸部分)に、現在人は住んでいません。
寒風沢が鹿倉村と呼ばれていた、1559年(永禄2年)大津波があり寒風沢(元屋敷)にあった70戸余の家が流失してしまい、現在の位置に転居したようです。
元々、家(屋敷)があった場所だから、元屋敷という地名になったのでしょう。

清太郎の錨揚げ

寒風沢港の全盛時代には、毎日、浦戸の島々には、汐待ちや天候待ちをしている藩米輸送の千石船がみられました。
それらの船の乗組員は、地元出身者が多かったそうです。
船が碇泊するときは、投錨と錨上げが船員にとっては大仕事でした。どの船にもカグラサン(木で作った巻上機)があって、数人がかりで作業しましたが、中々大変な仕事で、かなり時間がかかりました。

錨上げの最中に、疾風が吹いて、岸に打ち上げられたり、積荷もろとも難破したりすることも度々ありました。
ある日「イサナ」の悪天候のため、「マガカリ」中だった乗組員の何人かは、自宅で待機しており、船には独身者と幹部船員が数人だけ残っていました。
ところが、天候が予想より早く「ダシ風」になり、急激に回復してきて、潮流の条件もよくなって、いっときも早く船を出さなければならなくなりました。
けれども肝心の錨上げの船員がおりません。船員は、気が気でなく、顔を真っ赤にして、
「早く、早く、船を出せっ。まごまごしてっと、船が出せねぐなっとォ」
と、大声でどなるばかりでした。

そのとき、船に残っていた清太郎という船員がとび出してきました。
「船頭さぁ。おら1人で錨あげっから、船ば出さえん。大丈夫だから」
と叫ぶと、「えーいっ」と掛け声も勇ましく綱に手をかけると、軽々と船の上に錨を引き上げました。
清太郎の怪力のおかげで、船はらくらくと出港し、約束の日までに、米を倉庫に運ぶことが出来たということである。
当時、千石船の錨は四つ又で、30貫から50貫も目方があったといわれています。

市営汽船「みしお」は、平成8年に就航しました。
この船は、神奈川県横浜市鶴見区で建造され平成8年3月に進水後、横浜から塩竈まで回航したのですが、550馬力13ノット(1ノット=1.852km/hですので、およそ24km/h)の速力があるこの船でも、横浜を午前10時に出発、塩竈沖に翌朝5時頃到着。夜明けを待って、午前7時頃に塩竈に入港したそうです。待ち時間を考えなくても、10時00分から翌日5時00分ですから、19時間かかってます。

当時の船は、右の写真のような、千石船。この船で、「夜一夜」というのですから、夕方17時00分に出て翌朝7時00分に着いたとしても14時間。現在の市営汽船よりも速いのですから…

神明社霊験の事

房州の人で若年のころより永い間、舟乗りとして江戸、浦賀、四日市、函館、石巻、寒風沢等を、いわゆる御穀船と称する大船に乗り組み航海し、明治維新の後は、西洋形帆船に乗りて東京より各地の港湾に往来せる綽名を本牧安(ほんもくやす)と呼ばれた安蔵という人があった。
なぜ、本牧安と呼ばれたかというに、珍しきほどの禿頭で、その頭が本牧岬の如く禿げているからであったという。
この人、至って実直で、同業者仲間でも信用が篤く、往来の各港でも評判のよい舟乗りであった。常に職業がら讃岐の金毘羅社を信仰し、殊にこの寒風沢港には十五、六歳のころより出入りしてあった故か、寒風沢の神明社は私においては一層信敬が深いと常に人に語っていた。以下、同人の話。

ある年、東京から南部の八戸港に鰯粕積み取りのため、西洋型帆船「鳴鶴丸」に乗り組み航海した。
ところが下総犬吠崎附近より東南の暴風雨が襲来し、鹿島の浦(鹿島洋、外洋なるも、舟乗りはこの湾曲せる一帯の外洋を鹿島の浦と呼ぶ)にさしかかりし際は夜に入り、風力ますます強く次第に高浪となり、怒涛甲板を洗い、メンマスト(後檣)上帆の一部を破られ、船体は今にも沈没せんかと思われ、乗組員全部は必至となりて操帆、操舵に立ち働きしも、雨はますます烈しく、甲板上に打ち込む激浪はたえず、乗組員の操作は水中において動作すると同様にして、船の内外のランプは皆消滅し、夜は無準の闇にして羅針盤の方向を見ること能わず、船の進退は絶対不能となり、今は運命を天に任すよりほかなく、乗組員一同は、このうえは神に頼るのほかなしと、船長菊地高蔵氏(八丈島の出身)と協議し、一同一心不乱に寒風沢の神明の宮に祈願し、その方針を知らしめ玉えとしばし拝祷せしに、不思議にも無準の暗がにわかに明るくなり、檣といわずラアー(帆桁)と言わず、船の両舷ブリッジ(船橋)にいたるまで瓦斯の光の如き青白光が無数の燈を点ずるが如く耀き、船中の働きは自由となり、羅針儀の方位も明らかに見るを得るに至り、船中一統神助の著顕なるを感銘し、極力東方に向って航走を続けしに、翌朝未明に金華山の燈火を見て針路を石巻港に転ず。

航走中風雨次第におさまりて無事石巻港に投錨し得たるは、これひとえに寒風沢の神明の宮の霊護である。
私は船乗り一生の中に、神に祈願して、かくの如き霊験の顕かなることが実に実に不思議に堪えないとてさっそく船長菊地氏とともに乗組員一同神明社へ裸跣にて参拝したことがある。

このほかにも房州人で船乗りをした出口栄吉という人や、種々の人びとが、神明社の海上におけるところの霊験談を数々聞いているが、それは略して安蔵氏の談のみをしるす。安蔵氏は天保7、8年頃の生まれの人で、明治17、8年ごろまでこの地に航海往復した人である。

神明社は、寒風沢の(現在の)港から南の方向に進み、前浜海水浴場の手前にある、小さい地図の赤丸のあたり。

写真では木が邪魔でよく分かりませんが、すぐ目の前に、広い水平線が広がります。
社は、まわりにある沢山の木々に風から守られ、切り立った崖の下の方から波の音が聞こえてきます。神様が、この社の中にいて、海の方を見つめている様な気がする場所です。
塩竈市指定の有形民俗文化財である、絵馬「鮭を運ぶアイヌ」や、数々の千石船の額もこの社に奉納されたものです。

すばり地蔵の伝説

寒風沢の日和山に、縛地蔵と呼ばれる石像があります。しかしこれは地蔵といっても地蔵さまではありません。盧遮那仏(るしゃなぶつ)の像であります。
そのむかし、港繁栄時代、この港に集る女どもが、その恋人の出港をとめるため、この像に祈願して荒縄を巻いたので、縛地蔵と呼ばれるようになったのです。

伝説によると、寒風沢港が繁盛したころ、料理屋に「さめ」という、きりょうのよい女がいました。彼女は、愛し合っていた若者が遠く船出するのを悲しみ、船を一日でも引きとめたい一念から日和山に登りました。そしてこの地蔵を荒縄でしばり「船を引きとめてください。引きとめたら解いてあげます。」と、願をかけたのです。ところが、その夜から翌日にかけて暴風雨となり、船は出られなくなったのです。それ以来、この仏は娘たちによって、ときどきしばられることになりました。

「しばり地蔵」は、この地方で「すばり地蔵」と呼ばれるようになったのです。

さきごろ、この有名な地蔵にお参りしたときは、しばったまま朽ちたらしい縄が、そのひざにずり落ちていました。これは願が叶えられたうれしさに、ほどきにくるのを忘れたためか、それとも次の木皿甚句の一節のように、女の思いが達せられず、出港して行って再び帰らなかった船方がいたため、そのまま縛られていたというのだろうか。
沖を眺めて、ほろりと涙
空とぶかもめが、うらめしい。

この仏は、何百年もの星霧に、すっかり古びてしまったが、いまやしばられることもないままに、静かに松やぶの中に、南面して座りつづけているのです。

日和山は寒風沢桟橋からまっすぐ南にある高台で、ここにはしばり地蔵だけでなく十二支方角石等もあります。
しばり地蔵は、まっすぐ沖の方を向いていて、まるで波風の動きを操っているよう。この様子を見て「さめ」はこの仏に願をかけたのでしょう。
海に近い高台とあって眺めも抜群です。

宇南田の由来

村社神明社境内の西側に「うなんだ」と称する一反八畝歩の水田がある。
往昔、後土御門天皇の応仁年間、この地(元屋敷時代)に一漁夫あり性質温順にして常に業を励み、隣保に親しみ、郷党その淳直を称せり。
この漁夫、ある夜、夜釣せんとて船を漕ぎ出し、州の崎の海(前浜の海)に錨を下し、釣を垂れつつありしが、その夜は海穏やかにして空も晴れ、星の光明かにて夜釣には究竟の気食なりしが、例になく一尾の獲物なし。

いと不思議に想い、夜も更けたれば家路を指して漕ぎ帰らんとせしとき、静けき暗き夜は忽然として眩きほどに明るくなり、辰巳の沖の方より烈しき音響をなして電光の如く耀ける光り物飛び来り、そのさまいと畏しく、船の中に打ち伏して、畏る畏る光り物の飛び行く先を見守れるに、州の崎より数十間沖の海中にある兜島という磯に隕つしかと見る間に、またそこより飛び出でて、州の崎の田の沢に隕ち留まり、烈しき音をなして光を放ちたるを見て畏れ驚き、家に漕ぎ帰り寝に就きしが、その夜の夢に神人顕れ、漁夫に向かい、汝常に正直にして家業を励み、神を敬い、人に愛せられる故に神爾を授く、今より後は五穀豊穣にして漁利多く、海難疫病の患いなからん、必ず疑うことなかれ、われはこれ朝日さす神風の伊勢の大神なりと詔り玉うかと見れば、夢忽ちに醒め、心身すがすがしく、屋内霊香薫ずるが如く、その顕たかな示現と、昨夜の光り物のことを家族や親近の人びとに語り、ともに州の崎の西の沢に行きを見るに、一個の物体あり、これを伊勢の神の御神爾なりとて家に持ち帰り、神棚に崇め祀りしが、その後示現ありて州の先の地に宮居を設け、これを安置し宇南大明神と崇め祀り、その隕ちたる沢田をうなん田(又唸り田とも)と呼び今も数枚の田のうち一枚の田に、方三尺許の島あり、これを神爾の隕ちし処なりと言い伝えて、その田一枚には不浄の肥料を施さず、春秋二回の祭典にはその田より収穫せる米にて餅を作り、神前に供うるを例とし、今も猶かわることなし。

宇南大明神はウンナンサマとよばれています。
祀られているのは、寒風沢の(現在の)港から南の方向に進み、前浜海水浴場の手前にある、小さい地図の赤丸のあたり。神明社の裏手です。

この漁夫が夜釣りをしていたのは、寒風沢の海水浴場(地図の赤線部分)の沖です。
いまでも、よい漁場で、白魚漁もこのあたりでも行われているようです。