戊辰戦争

戊辰戦争

戊辰戦争と浦戸

慶応4年1月15日、有栖川熾仁親王大総督の“官軍”は京都より江戸に向って進軍をつづけていた。
一方奥羽鎮撫総督府が編成され、総督一行600名の将兵は3月11日大阪から海路、奥州に向って出港した。寒風沢港に入港し上陸したのは3月18日のことである。
従う軍隊は薩摩、筑前などの藩兵で、浦役人長南清八郎の邸宅の奥の間に錦旗を奉安し、総督一行休息され、仙台藩の鳳凰・孔雀丸及び浦戸の総小舟を徴発し桃生郡東名(現鳴瀬町)に上陸した。

鎮撫首脳は
・総督 従一位大納言 九条道孝卿
・副総督 従三位 沢 為量卿
・上参謀 従四位 醍醐忠敬卿
・下参謀 薩摩藩士 大山格之助
・下参謀 長州藩士 世良修造

奥羽25藩の朝命に対する履行の態度は揺れに揺れていたため世良、大山のあなどりをうけ奥羽諸侯はこれに反感が高まり、4月20日午前2時ごろ、福島街道金沢屋において世良参謀を暗殺し“賊軍”となるのである。
5月1日白河の戦闘が始まり、戦況不利と共に同盟を裏切った秋田、弘前、新発田藩の脱藩、新庄城、二本松、平城落城、上野彰義隊の敗北者仙台領に難を避け、ぞくぞく塩竈や松島を経て野々島、桂島に集結した。
長鯨丸に乗り組んで一番早く石浜に投錨し、野々島に上陸した将校杉浦清介の「苟生日記」に、
8月25日 微雨微寒。布島(野々島)ニ上ル。
8月26日 ソンデイ桂島ニイタル。コノトキ挙目、都下人島中ニ満チ、状態トウテイ偸安、タダ嘆ズルノミ。
「彰義児依旧無状可悪矣」とつづく。
慶応4年8月21日、幕府軍奉行榎本武揚が開陽外八隻の艦隊を率い、仙台領に向ったが途中台風に遭遇し、運送船美加保丸は銚子海岸で沈没、軍艦咸臨丸は清水港において政府軍にだ捕され、残る6隻は風浪と戦いつつ、長鯨丸は、8月24日午後3時石浜港に入港した。
同26日 回天同港に到着、3本マストの外輪船である。前、中2本のマスト折れ見るにたえないすがたになっている。
同28日 雨未ダヤマズ。第2時「開陽」東名浜ニ碇ヲオロス。風浪ノタメ舵ヲ折リ大イニ苦シムトイウ。
ボート3隻も流失、マストをヤードも無残に折られ到着した。同日「千代田」さらに神速は松島湾深く進航し投錨した。
「播竜」は伊豆の安良里港で修理し、9月18日寒風沢水道に入港し船団に加わった。
列藩の最高責任者達は武揚を加えるために寒風沢に出張し、また榎本を補佐する老中坂倉伊賀守、唐津藩主小笠原壱岐守、桑名藩主松平越中守、永井玄蕃頭、春日左衛門、人見勝太郎、竹中重固、松平太郎、土方歳三外の幹部が浦戸4島に分宿し、戊辰戦争の舞台となって注目された地である。 

榎本艦隊入港当時の浦戸

慶応4年6月より仙台藩の江戸、京都への政治的連絡は主に海路によった。
各藩の要人の出入も多く、浦戸諸島は急に軍船の重要港として利用されるのである。
島民の総動員は言語に尽し得ないものがあったことは当然である。
幕艦開陽は8月28日東名浜に到着、同日午後仙台藩宮城丸に曳かれ湾内深く進航し、27日石浜水道に入港した回天と共に投錨した。
浦役人長南清八郎に各艦の修理についての協力の命が降り、各島の肝入りが集められその分担が定められた。
石浜造船所には数十名の船大工しかいないので、塩竈、石巻、気仙沼は勿論南部藩や岩代藩からの応援大工を募り総勢200人前後の職人が昼夜交代で修理が行われたと古老が語り伝えている。
浦戸諸島は寛文の海運時代より千石船の集会の地であったので、補修資材の運搬は容易であり、薪炭などは南部方面から大量に搬出し、食料は寒風沢にある幕府直轄米、仙台藩倉庫より補給し、3千人の将兵の食生活は満足だったらしい。
将兵は毎日海浜に出て調練や鉄砲の射撃訓練をしていたことは杉浦清介の日記にも書いている。
大工のことで当地にこんなことが伝えられている。南部大工は、仕事が早いが仕上げは粗末で、気仙大工は、日暮れに精を出し仕事は早い。諺に仕事が早いが下手な人を南部大工、日暮れに精を出して働くのを気仙大工とよんでいる。このことは当時交代制で仕事をしたためか、また、特徴があったのかわからない。
飲料水や蒸気機関用の水には苦労したらしい。高瀬船、平田船を改良し、水船(給水船)として数十隻が高城川上流や浜田山峡の流水を一日数回運搬したという。
近在からは煎売船が酒肴、餅、果物、青物野菜、漬物を売るため4~50隻の小舟で艦も島内も大盛況をきわめ、漁師達は毎日獲る魚では足りなかった。
9月15日、仙台藩は降伏と決まったので、榎本武揚外の補佐する幹部、林董、沢太郎左衛門、荒井郁之助、甲賀源吉、仏教官プリュネー、カズヌーフ外も浦戸諸島に滞留中の軍艦に引揚げた。
10月初旬、各艦の修理もほぼ完成、出港準備に忙しい日が続いていた。
塩竈・松島・東名・四ヶ浜に集結した兵を潜ヶ浦に拿捕していた千秋丸(秋田藩)に乗せ、仙台藩の大江丸、鳳凰を合わせ9隻の艦船に3千数百余の旧幕の名士多数を分乗せしめ10月12日石浜水道より出港して行った。
榎本武揚は出港に際し、各戸に相応の謝金や賃金の支払を済ませ艦に引揚げたという。
翌明治2年3月、官軍の海軍8隻榎本艦隊を追って石浜、寒風沢水道に立寄り2日間の碇泊中に浦戸4島より物資を徴発し鶏までもいなくなり、徹底的な経済の打撃を受けた。その外記録、文献なども持去られてしまった。
ある旧家では今でも獅子頭を門戸より入れない程の凝りようである。
これは、古老達三代にわたる説話をまとめたもので、桂島内海徳一郎(当68)氏の祖々母の話では、浦戸の米倉は武器弾薬庫に使用せられ、幕兵が各戸に割当てられ宿泊し、毎日数回軍艦との連絡のため肝入りから小舟差出の割当があり島民は多忙をきわめ、隊員等は死を覚悟していたらしく、家族への手紙や金銭の送り届けを託され、後にその約束を果たしたという。