浦戸の漂流記

浦戸の漂流記

漂流記録一覧

1723年(享保8年)1月15日
石巻港出帆、御穀船が江戸に向う途中漂流、米694俵荷打し、琉球に漂着。11月29日江戸に帰帆。

1739年(元文4年)3月19日
奥州石巻村の船(沖船頭惣兵衛)が種子島益田村字後浜に漂着。

1739年(元文4年)3月19日
奥州石巻村の船(沖船頭惣兵衛)が種子島益田村字後浜に漂着。

1739年(元文4年)11月
陸奥の穀船(16人乗り)石巻出帆、漂流。1740年6月、蝦夷地登加知に漂着。乗組員16人の内11人が死亡。生存の5人が松前藩から仙台藩へ引き渡さる。藩主伊達吉村9月16日に引見。蝦夷地の風俗を聞く。

1746年(延享3年)2月3日
奥州仙台門脇の船(24反帆、船頭平吉)が、南部の米を積み、江戸へ向う途中、漂流。帆柱を切り捨て漂流し、種子島野間村に漂着。種子島家で漂民を世話したのに対し、11月17日仙台藩から金銀を贈って労を謝した。

1756年(宝暦6年)12月7日
石巻村の穀船(船主和泉屋升右衛門、水主徳平衛、13人乗り、積荷500石)が江戸に向う途中、大風のため漂流。翌年4月蝦夷地シコタン(色丹島)に漂着。13人は6月に松前の商船で松前へ送らる。9月帰郷。

1774年(安永3年)最吉丸 11月30日
陸奥国折の浜(石巻市折浜)の穀船、十兵衛船最吉丸(23反帆、14人乗り)が常陸沖で漂流。翌年4月16日に中国広東省潮州府潮陽県に漂着。安永5年(1776年)1月27日、2月7日に分かれて長崎へ帰着。

1774年(安永3年)永福丸 12月7日
陸奥国小竹浜(石巻市小竹浜)の穀船、六兵衛船永福丸(26反帆、16人乗り、沖船頭佐五平)が岩城国塩屋崎沖で漂流。翌年3月6日中国福建省泉州府恵安県の小島に漂着。12月5日、12月11日清国船で長崎へ帰還。

1774年(安永3年)永福丸 12月7日
陸奥国小竹浜(石巻市小竹浜)の穀船、六兵衛船永福丸(26反帆、16人乗り、沖船頭佐五平)が岩城国塩屋崎沖で漂流。翌年3月6日中国福建省泉州府恵安県の小島に漂着。12月5日、12月11日清国船で長崎へ帰還。

1793年(寛政5年)若宮丸 11月27日
石巻港より出帆。若宮丸(24反帆、800石積み)が塩屋崎沖で漂流。翌年ロシア領に漂着。1804年9月にロシアの軍艦で長崎に帰還。

1794年(寛政6年)大乗丸 9月30日
奥州名取郡閖上浜の大乗丸(船主彦十郎、25反帆、16人乗り、沖船頭清蔵)が、南部氏の江戸廻米2,600余俵を積み、江戸へ向う途中、房州沖で漂流。閏11月21日安南に漂着。安南で清蔵ら6人病死。10人はマカオから広東(1人病死)へ送られる。残り9人は、清国船で翌年11月22日、12月14日に長崎へ帰還。近藤重蔵の取り調べをうける。(長崎で1人病死)8人は仙台藩に引き渡され、寛政9年(1797年)6月17日江戸で、藩主伊達周宗に引見されている。

1822年(文政5年)2月4日
奥州仙台牡鹿郡湊(石巻市湊)の穀船(船主円蔵、沖船頭吉蔵)が種子島上村湊に漂着。

漂流地

琉球:1件
種子島:4件
蝦夷地:1件
色丹島:1件
清国:2件
ロシア:1件
安南国:1件
計:11件

若宮丸漂流の事

寛政5年(1793年)11月27日、(24反帆、800石積み)藩米332俵と木材を積んで石巻港を出帆、江戸へ向け南進した。塩屋崎沖で南の強風に遭い、北へ北へと漂流すること約半年、船体破損し食糧もつき16人の生命にも危機が迫った時、辛くも到着したのは魯領(ロシア領)の島であった。
一行は九死に一生を得て上陸し、ロシアの官警に救助されシベリヤを横断し、国王に謁見を許され優遇され、政府の好意によって帰国を希望した津太夫、儀兵衛、左平、多十郎の4名が、軍艦ナデシタ号によって南米を経て無事長崎に送還された。
漂流者一行は、寛政5年11月から、文化元年9月まで12年をかけて世界一周をして奇跡の生還をした。
この事件は「環海異聞」に詳記されている。
多十郎の墓は室浜の入口に建てられているが外の3名の墓碑は土に埋もれてしまったのか発見することができない。寒風沢の加藤家仏壇に津太夫の母の位牌があり供養されている。
乗組員は、寒風沢浜善五郎息水主(船のり)津太夫(46)、寒風沢浜長九朗息水主左平(43)、深谷室浜源三郎息水主儀兵衛(44)、月浜水主多十郎(35)、石巻沖船頭八三郎、石巻水主民之助、小竹浜水主次平、寒風沢浜舵取左太夫、石浜舵取辰蔵、石浜舵取善六、石浜水主銀三郎、石巻水主清蔵、石巻炊夫巳之助石巻水主市五郎。

若宮丸漂流始末

1)レザノフ来航の記述
文化元(1804)年9月6日ロシアの遣日全権大使レザノフが、クルゼンシュテルン大佐の指揮する軍艦ナデジュタ号に乗り長崎に入港して通商を求めたが、このときもわが漂流民、陸奥の津太夫らをつれてきた。(『日本歴史』中央公論)
文化元(1804)年9月、ロシアの遣日全権大使として、露米会社の総支配人レザノフが、ロシア軍艦に乗って長崎に入港した。・・・この船にも寛政5年、木材・米穀を江戸に運送する途中、暴風雨にあい漂流した仙台領の船乗り11名の生存者のうち、帰国をねがう津太夫ら4名がのっていた。(『日本の歴史』小学館)

2)若宮丸漂流記
・環海異聞:仙台藩命で大槻玄沢が文化4年にまとめたもの。16巻、付図1巻
・写本:現在まで10冊以上発見されている。
・刊本:『石巻市史』『鳴瀬町史』『日本人漂流記』『江戸漂流記総集』『初めて世界一周した日本人』他

3)若宮丸
奥州牡鹿郡石巻(石巻裏町)
・船主:米沢屋平之丞 800石積み、16人乗り
・沖船頭:平兵衛

4)乗組員の出身地・氏名・漂流後
・牡鹿郡石巻:沖船頭 平兵衛(オンデレッケで病死)
・宮城郡寒風沢:楫取 左太夫(病気で残留)
・宮城郡寒風沢:水主 銀三郎(ペリマ残留)
・宮城郡寒風沢:水主 民之助(ロシアに帰化)
・宮城郡石浜:水主 辰蔵(ロシアに帰化)
・牡鹿郡石巻:水主 清蔵(病気残留)
・牡鹿郡石巻:水主 八三郎(ロシアに帰化)
・牡鹿郡石巻:水主 善六(ロシアに帰化)
・牡鹿郡石巻:水主 市五郎(ヤクーツクで病死)
・牡鹿郡小竹浜:水主 茂次平(ロシアに帰化)
・牡鹿郡小竹浜:水主 吉郎次(イルクーツクで病死)
・牡鹿郡石巻:炊 巳之助(ロシアに帰化)
・宮城郡寒風沢:水主 津太夫(帰国 61歳)
・宮城郡寒風沢:水主 左平(帰国 42歳)
・桃生郡深谷室浜:水主 儀平衛(帰国 43歳)
・桃生郡深谷室浜:水主 太十郎(帰国 34歳)

5)帰国者
・津太夫:不明
・左平:不明
・太十郎:墓碑に「本田住良信士 文化3寅年 長崎より下る」
・多十郎:4月初朔日 行年36歳」
・儀平衛:観音寺過去帳に「長流来見信士 行年46歳」

6)若宮丸漂流年表

1793年
(寛政5年)
11月27日若宮丸(松平政千代用材木、米穀1,100石積み、船主米沢屋平之丞、沖船頭平兵衛、水主16人乗組み)石巻出帆。東名入港
11月29日東名浜出帆 岩城塩屋崎沖で南西風にあう
12月2日漂流
1794年
(寛政6年)
5月10日アリューシャン列島の一小島へ漂流
6月4日ヲンデレッケストロ島へ渡る。原住民(アレウト族か)に救われる。
≪平兵衛 病死≫
6月13日ロシア役人と共にナアツカ(アトカ島)着。
1795年
(寛政7年)
4月3日ナアツンカ出発
4月27日サンハメウ着
6月28日オホーツカ(オホーツク)着
8月18日オホーツカ(オホーツク)出発
10月13日ヤコーツカ(ヤクーツク)着
≪市五郎 病死≫
11月24日ヤコーツカ(ヤクーツク)出発
1796年
(寛政8年)
1月24日エリコウツカ(イルクーツク)着
1796~1803年
(8年間)
 エリコウツカ(イルクーツク)滞在
≪吉次郎 病死≫
新蔵(伊勢国神昌丸の残留者)通詞
1803年
(享和3年)
3月初旬エリコウツカ(イルクーツク)出発 ≪左太夫・清蔵 病気で残留≫ → カラスナヤッケ(クラスノヤルスク)→ トンスケ(トムスク)→ エカテンホルカ → コンクリ → ヘーリマ(ペルミ)≪銀三郎 病気で残留≫ → ガザニ(ガザン)→ モスコウ(モスクワ)
4月27日ビゼリボルカ(ぺテルスブルグ)着
5月16日アレクサンダー1世と会見
10名中 帰国希望4人 露国帰化希望6人
帰国者 レザノフの対日交渉に利用するとの意向
6月16日カナシタ(クロンスタット)出帆
ナデジュタ・ネヴァ号 → カウヘイカハニ(コペンハーゲン)→ タンケリヤ(イギリス)→ カナリヤ(カナリヤ群島)
11月下旬エカテレナ(ブラジル)着
1804年
(文化1年)
1月初旬エカテレナ(ブラジル)出帆
4月マルケサ(マーケサス群島)→ サンヘーツケ(サンドウィッチ ハワイ)
7月初旬カムシャッカ(カムチャッカ半島ペトロバウロフスク)
8月5日カムシャッカ出帆
9月6日長崎着
1805年
(文化2年)
3月10日漂流民4人 揚り屋には入る
3月25日ナジュダ号 帰国