浦戸”村”の歴史

浦戸”村”の歴史

浦戸村の情勢

浦戸村は宮城郡の最東部にして天下の絶勝松島浦の外海を掩ふて散在せる諸島嶼より成る。所謂八百八島景観の一部を構成する列島なり。
其の大なるものを寒風澤島といふ。桂島これに次ぐ。桂島は二部落に分れ、東部を石濱と称し西部を桂島と謂ふ。野々島・朴島又之に次く。
各島何れも屬島あるも皆無人の諸島嶼なり。全村の面積約3.6平方粁東西約6粁南北約6粁なり。

明治27年發行の日本帝國新地圖の島嶼表には以下の如く記されてゐる。

・一、寒風澤本島 周回 一里十四町二十間
・一、野々島、朴島各本島を合せ 周回 一里五町十二間
・一、桂島、石浜を合せたる本島 周回 二十三町二十間

*1里=3.93キロメートル、1町=60間=1,090.8メートル、1間=18.18メートル

本村は、東桃生郡宮戸村と一衣帯水の海峡を隔て郡界を成す。北東桃生郡野蒜村東名濱と本村の朴島東北端に相對し、会場一海里を隔てて相隣りす。西北は松島浦に面し、海上約五海里餘にして松島町に相對す。
西南七ヶ濱村に相對して海上三海里乃至六海里餘を隔つ。西方鹽竈市を距ること八海里餘なりと雖も、日常の生活物資、水産物の販賣、購買、及び陸上との交通には鹽竈市に依るを最も至便とする。
東南は大羸びょう漫天際を彊る、所謂太平洋なり。沿岸一するところ概ね嶄巌絶壁、怒涛岸を洗ひ、岬灣屈曲奇巌怪礁突兀として高く聳え低く伏せり。其の間に沙濱灣汀ありて、海水浴場に適す。
列島悉く松樹を生じ樹容偃臥せるあり、直立するあり、懸垂するありて何れも老苔枝幹に生じて千古の風姿を成せり。各島到る處眺望に富み、煙波遠く連り、翠巒笑ふが如く濱汀鱗族の來遊多く、朝暾洋上に上るところ金波耀き夕日映ずるところ錦彩を鋪く。
白帆瞥没として其の間に徂徠するの景致實に風光秀麗表松島雄大の景観寔に空しからず。

・島が根に磯うち浪の音たえて
 蜑がのき端にちどり啼くなり 睡鴎漁叟
・住む人もありとこそ聞け八百八島
 山も浮きたるさみだれの空 同人

浦戸村の沿革

明治以前

本村の沿革を繹ぬるに、太古は先住民族の棲棲息せしところにして、奈良朝の頃は世々の國司に統治せられ、神龜元年甲子多賀ち鎮府を置かれしより其の治下にありしことは明らかである。
平安朝の、貞観十一年夏五月二十六日(或は七月十三日とも云う)大地震大海嘯あつて松島灣一帯の地に大地変を生じ、此時現在に現る松島の大景勝が出來たといはれて居る。
其の以前は多賀の鹽竈より桃生郡大塚濱まで沿岸傳へに公けの驛路があつて、多賀國府と桃生の柵を結ぶ官道であつたといふ。
また、この大地変以前には七ヶ濱村より本村一帯を絡み宮戸村まで陸続きであつたとも謂はれて居る。
康平の頃源頼義が陸奥守兼鎮守府将軍たりし時、其の子八幡太郎義家などが時折朴島へ出遊されたとの句碑も傳えられて居る。
平泉藤原氏の陸奥守鎮守府将軍時代には、鎮府は既に田村将軍の時丹沢に移され、多賀國府も空虚で國務は平泉で執られたものであるが、此地方は秀衡の第三子和泉三郎忠衡(和泉屋とも稱す)の所管なりしものの如し、後鳥羽天皇の文治五年源頼朝平泉藤原の四代泰衡を征討し、葛西臺岐守清重を平泉兼非違使所の軍を管せしめ奥羽の留守職として宮城郡高森城に居らしむ。
故に其より戦国の頃まで留守家の所領で其の治下であつた。
延元の頃より足利氏の勢威盛んになるに及び留守氏も其麾下に属したのであるが、大崎氏の族黒川郡の領主黒川安藝守晴氏の管するところとなりしものの如し。
此頃には留守氏の勢力は衰へ當主政景は伊達晴宗の子で留守家を継ぎ利府城に居り、黒川晴氏の女と婚したにも因れるならんか。
故に今の松島町の大部分と浦戸村東部即ち寒風澤・野々島・朴島を大谷の荘、高城の郷に編せれて高城寒風澤濱・高城野々島。高城朴島と公稱されて高城大庄屋扱となって居た。
桂島・石濱は宮城郡濱方として七ヶ濱村と共に留守家の所領で笠神大庄屋扱となって居た。
慶長以來伊達家統治三百年間明治維新に及ぶまでこの制度で取扱はれて居った。

明治維新・大小區制

明治維新直後藩政を布かれ藩主を以て藩知事とし、其の下に大參事小參事及び下僚を置き、村濱にはもとの肝煎役を置いて治めしめられてあつたが、藩政が廃され懸治が布かれ、此村は一時磐前懸治下に編されたことがあつたが、間もなく宮城懸令の治下となり、村濱には戸長一人、副戸長一人を置き統治された。
之は明治六、七年の頃で此時地租改正が行はれた。
明治八年に懸治の下に大區小區制となり、鹽竈・松島・利府・七ヶ濱其の他の村濱と共に第二大區に編せられ、區務所を鹽竈に置き、此村は七ヶ濱と共に小十二區として戸長一人を置き、各村濱には戸長の下に隷属する村扱といふ職を置いて取扱はしめた。小十二區の戸長は七ヶ濱松ヶ濱の太宰藤右衛門(網や麻を行商し、麻売藤右衛門と呼ばれた)よ云ふ人が官選され、本村は寒風澤・野々島・朴島を一區域として村扱一人を置き、石濱・桂島を一區域として村扱一人を置き、本村地域には二人の村扱があり、各扱所に筆生(今の書記)一、二人を置き事務を執らしめた。各部落には組長(後世の區長)を置いて村治を幇助せしめ、地籍・戸籍・徴税に至るまでは携はらしめたのであつた。

明治・大小區制廃止

明治十年に至り大小區制は廃止せられ、懸政の下に郡治の制が行はれ、宮城郡長として菅克復といふ人が任命され、郡役所を宮城郡南目村(今の原ノ町)に置かれ、各村戸長一人を置き取扱はしむることとなつた。
本村は舊村濱の名稱を其の儘として寒風澤濱・野々島・朴島・石濱・桂島を聯合して戸長一人を置かれ、之を寒風澤濱濱他四箇島聯合戸長と公稱した。
其の時の戸長は太田茂八郎といふ人が官選され、各部落に組長一人または二人を立て、戸長役場は寒風澤濱に置き、筆生二人を置き庶務財務等の事務を執らしめ、また各部落の戸主の推薦選挙で村会議員を挙げ村会を開始し、議員中の互選で議長を立て、戸長は議案を提出して村の経費及び学事などに関する要件を審議せしめた。
議員の定数は何名であったか不明であるが総数十二名位であつたと記憶する。
明治十年に宮城郡長菅克復氏の諭名に依り、朴島の戸数(当時十三戸)甚た少なしとの理由で之を野々島に併合せしめ、野々島の内字朴島と稱せしめられてのであるが、當時朴島住民は如何に憤慨せしかは想像するに難からず、後同十四年牡蠣漁業に関し野々島・朴島間に紛議が生じ官庁及び當局者は非常に狼狽した事があつた。
幸に調停成立して治平した。
今にして思えば戸数の如何に拘らず朴島は朴島として独立地域として存在せしめ置くは適當である。

戸長・戸長役場の廃止

明治十七年春、本村は戸長及び戸長役場が廃止せられ、鹽竈村に併合され、鹽竈村戸長菊池雄治氏の支配となり、戸長役場の名稱は鹽竈村外四箇島戸長役場と稱した。
此時鹽竈戸長の配下に離島取締人一人を置き、戸長役場より筆生一人を臨時に派遣して戸籍・地籍・徴税等の事務に當らしめ、離島取締人を補助せしめたのであつたが、頗る不便の點が多かつた。
離島取締人は前戸長太田茂八郎氏であつた。

市町村制度の開始

明治二十二年市町村自治制度の施行に當り、鹽竈村は鹽竈町となり、茲に於てこの五部落は鹽竈村の支配を脱し独立村を構成することとなり、戸主にして公民権を有する者の選挙に依り村会議員を選出した。
當時戸数二百個、人口一千二百余で村会議員の定数は八名であった。
而して下の八名が當選した。
明治二十二年四月實施。

・内海 長左衛門(寒風澤)
・鈴木 淺治(寒風澤)
・鈴木 新太郎(野々島)
・内海 文吉(朴島)
・鈴木 林右衛門(石濱)
・高橋 伊之助(石濱)
・鈴木 永三郎(桂島)
・内海 徳蔵(桂島)

次いで年長議員内海長左衛門(元肝煎役)議長となり、村長・助役・區長の選挙を行い下の人々が當選した。

・村長:白石 廣造
・助役兼収入役:太田 茂八郎
・區長(行政區割を六區とす)
 寒風澤南区:土見 祐之助 / 寒風澤北区:設楽 熊蔵 / 石濱:高橋 安吉 / 桂島:内海 卯之吉 / 野々島:鈴木 辰次郎 / 朴島:尾形 清助

村名の由来

村名を浦戸村と稱した理由は、自治制實施直前、村命稱呼に就て有志会合の際、鈴木淺治氏の意見に、昔事此地方は石巻港と共に江戸との海運交通頻繁で船乗も多く、石巻港とは密接な関係にあつた。
當時石巻では松島湾一帯及び宮戸地方を浦戸地方と呼んでゐた。
而して又我村は松島浦正面の門戸である故浦戸村と稱するは宜しからんと提議した。
一同之に賛し浦戸村と冠稱したのである。
本村住民の多くは漁業・海運業・航海業・農業等の兼業で生業として居る。

浦戸村役場の沿革

浦戸村役場の建物は元寒風沢の名家長南清八郎代々の邸宅の奥座敷の一部である。
長南家は明治6年或る事情の爲、負債を生じ身代限の處分を受け此地を退去した。
其の主たる債権者は伊達伯爵家であった爲に邸宅及其他の土地も全部伯爵家の所有となった。

然るに明治28年4月、浦戸小學校が消失の爲め全部燒失したので、有司協議の結果、他の適地を撰定することとなり、資材の關係上長南氏の舊地を適當として當時の宮城郡町大童信太夫の斡旋盡力に依り、此邸宅を學校建築地として建物全部と共に拂下を出願したところ、伯爵家では彼の邸宅は伊達家數台に渉り藩主出駕の節は何時も駐泊され、また明治戊辰の際奥羽鎮撫總督九條公の一行が錦旗を奉して駐せられた家であって、伯爵家とは淺からぬ家宅である故、世襲財産として保存すべきものであるが、學校に使用するといふことでは拒否することも出來ぬから拂下るとしても、藩公の泊された奥座敷丈は殘して保存されたいと云ふ條件で邸宅と其他の土地も全部特別なる拂下金で村有となったもので、學校建築の際、此二間を殘し建物全部を用材として學校が出來たのである。

而してこの二間を補修して村役場に使用して居るのである。

浦戸村吏員歴代表

村長初代白石 廣造明治22年4月22日~明治24年5月14日
第二代高橋 安吉明治24年5月23日~明治33年3月22日
第三代鈴木 淺治明治33年5月9日~明治39年7月15日
第四代鈴木 喜兵衛明治39年8月4日~明治39年11月12日
第五代内海 市五郎明治43年1月12日~大正11年
第六代船渡 清四郎大正11年~大正15年4月30日
第七代土井 兼太郎大正15年8月9日~昭和17年8月8日
第八代郷古 良平昭和17年8月9日~昭和19年8月19日
第九代鈴木 善七郎昭和19年11月7日~昭和21年2月6日
第十代土見 東一昭和21年4月6日~昭和21年11月27日
第十一代鈴木 昇昭和22年4月5日~昭和25年3月31日
助役初代太田 茂八郎明治22年4月22日~明治23年5月18日
第二代鈴木 淺治明治23年5月27日~明治24年5月14日
第三代鈴木 新太郎明治24年5月23日~明治28年5月22日
第四代鈴木 淺治明治28年5月23日~明治33年5月13日
第五代鈴木 善兵衛明治33年6月8日~明治35年
第六代鈴木 喜兵衛明治35年~明治39年8月3日
第七代土井 兼太郎明治39年8月20日~明治43年1月16日
第八代鈴木 新太郎大正7年5月14日~昭和15年8月11日
第九代鈴木 善七郎昭和2年1月9日~昭和5年6月29日
第十代郷古 良平昭和5年8月2日~昭和9年8月1日
第十一代鈴木 善七郎昭和9年8月4日~昭和14年10月5日
第十二代高橋 安治昭和15年3月3日~昭和19年3月2日
第十三代土見 東一昭和19年3月13日~昭和21年4月2日
第十四代伊豆 弘二昭和21年5月25日~昭和25年3月31日
収入役初代太田 茂八郎明治22年5月10日~明治23年5月18日
第二代高橋 安吉明治23年5月27日~明治24年5月15日
第三代土井 兼太郎明治24年5月25日~明治27年9月20日
第四代土見 祐之助明治27年10月1日~明治31年9月30日
第五代土井 孝太郎明治31年10月1日~明治32年12月17日
第六代太田 茂八郎明治32年12月20日~明治33年3月22日
第七代土井 寅吉明治33年5月23日明治39年7月16日
第八代土井 兼太郎明治39年11月4日~明治42年10月17日
第九代土見 勇次郎明治42年10月28日~大正14年11月2日
第十代鈴木 源四郎大正14年11月6日~昭和12年11月6日
第十一代鈴木 菊治昭和12年11月7日~昭和21年11月22日
第十二代長南 作四郎昭和22年4月1日~昭和25年3月31日