洋式軍艦「開成丸」

洋式軍艦「開成丸」

開成丸の建造と命名

日本初の洋式軍艦「開成丸」

文化元年(1804年)レザノフが日本との通商を求めてきたが、幕府はこれを拒否したため、ロシアでは千島に報復攻撃を加えてきた。
文化4年(1807年)仙台藩に出動命令がくだり石浜水道より2,000人の藩兵を出動させ、北辺の警護にあたらせ、南下に備えた。
これから50年後の安政2年(1855年)4月に仙台藩は蝦夷地の警備を命じられた。
仙台藩はここに次三男を屯田兵として移住させ、新仙台領を建設しようとして藩領編入を願い、安政6年(1859年)に許可された。
養賢堂学頭大槻習斎を中心に「開物、成務」の計画をたて武備をかためながら、西洋式新技術を採り入れ軍制改革を推進していた。
兵学主任小野寺鳳谷(寒風沢・石浜・船入島の砲台設計者)が藩命によって江戸の造船技術家三浦乾也を招聘し、安政2年8月26日寒風沢字山崎の地で着工、翌4年7月14日完成を見た。
船の長さ110尺・幅25尺・高さ19尺2寸・2本マスト・洋式大砲9門を備えた日本最初の洋式軍艦として建造され、開物成務より開と成をとって開成丸と命名した。
その造艦の碑が寒風沢日和山の麓に建っている。

開成丸の進水図

開成丸調練帰帆図(仙台市博物館蔵)

造艦の碑

開成丸模型 (壱番館に展示)

開成丸航海日誌(その1 出港前)

我軍艦開成丸。江戸の人乾也三浦氏。本藩の命を奉じて惣棟梁の職に居り。宮城郡高城寒風澤に於て。安政3年8月26日手斧始して。同4年11月製造全く成就す。其成功抜群なりとて御感あり。今茲5月三浦氏は。余禄百俵にて大番組に召出され。外に20口の米は江戸にて賜り。御作事奉行の格たらしむ。然るに養賢堂学頭大槻殿。始より此事に與かり功有るにより、学田より出る米穀を此船に積入れ、江戸へ運送すべき御許しを蒙り、いざや此事始に封内の近海を。乗試すべしとて先乗組の人々を定む。

一、惣棟梁航海按針測量方指南役 三浦陶蔵
一、航海按針測量惣主立本締御用辨 村田善次郎
一、砲術方主立船中締の役兼 大槻禮輔
一、蘭学方測量方兼御役人兼 佐藤良之進
一、主立御役人砲術方兼 油井順之輔
一、砲術方測量方手傳不寝番兼 佐藤新之丞
一、測量方不寝番役兼 森田久平
一、砲術方測量方手傳不寝番役兼 手戸玄吉
一、按針測量方主立船中締り役兼 古山誠之丞
一、学問方地理方書記役兼 茂庭輿七郎内 小野寺謙治
一、砲術方測量方手傳不寝番兼 同謙治悴 小野寺常治
以上 11人

一、子供にて砲術方見習 組抜 佐藤一平
一、同 砲術方太鼓打見習 組抜弥蔵悴 寒河江才治
一、同 測量方見習い 御旗本足軽運治次男 梅津彦三郎
一、軍艦方下役假役鍛冶主立兼 齋藤富治
一、船大工世話役 繁松
一、帆前方手伝 養賢堂御掃除人頭並 喜兵衛
以上 6人

一、水主主立 兵三郎
一、御道具締り兼 松島御水主組頭假役 喜兵衛
一、舵取親司 忠八
一、表廻り 市三郎
一、同 重右衛門
一、同 帆前方世話役兼 直治
一、賄手傳 忠治
一、舵取手傳 安治
一、同 清五郎
一、帆前方世話方手傳 竹松
一、以下並水手 松島御水主 五郎助
一、同 源五郎
一、同 源次郎代 喜兵衛
一、同 久六代 松蔵
一、同 安吉代 亀吉
一、同 宗兵衛代 春吉
一、同 薪屋 運八
一、炊夫 庄助
一、同 鶴吉
以上水手 20人

都合乗組 20人

右は大小の事。悉く惣棟梁の指揮に任すべき旨。学衆より命ぜられ。此外船中守るべきの條々残る所なく。惣主立これを承り。12月15日惣主立村田氏。彦三郎を共に連れ塩竈に下る。

開成丸航海日誌(その2 航海中)

安政4年12月16日

一、十二月十六日、暴暖という程也。
惣棟梁三浦氏。久しく予か家に在りけれは、一卒を供に連れ。予と常次とともに。
畫9つ過一同發足し。塩竈町に着せし頃は黄昏に及びぬ。
下役富治其外。日新丸天開丸の下役。阿部三四郎・齋藤善五郎。御船方主惣兵衛・忠蔵等。町の入口迄出迎て。
軍艦御用酒屋三浦屋勘左衛門方え案内し。惣主立一同宿に饗應誠に懇なり。

安政4年12月17日

一、十七日。天未だ明さるうちより。
起出て御用船に上る。時しも西北風烈しく吹来れども難なく。朝五ツ頃寒風澤に着き。別に宿りを求めるにも及ばず。直に開成丸に船居住す。
水手中の喜大方ならず。此日も殊に寒かりしかと。
船中は硝子窓より明りを取り。寒風少しも吹入るべき透間なければ。懸置く所の験温器は。毎日五十一二度に上れり。これによりてはじめての程は風に當るもの多し。
其夜は中和温暖の氣候なる所に居りて。俄かに廿度前後の甲板の上に登り。海天の寒氣に触るゝ故なり。
然れどもこれも久しく馴れたれば。後には風邪ひく者もなかりし。

安政4年12月18日

一、十八日。西風烈し。畫九ツ頃野蒜詰津方面御役人佐藤源八郎。御蔵守等引連来りて。軍艦へ附属する器械等。残らず引渡すべき旨申により。調役守屋豊治佐藤良之進・下役長南星清八郎等立会。此方にては惣主立役人方にて。帳面引合受取る。

安政4年12月19日

一、十九日。風穏也。惣主立四ツ頃出港して。兵三郎・巳之助・安治を引連て野蒜へ赴き。養賢堂御穀百表餘を受取。直に艀下船に積入れ。其夜石の巻より湊御蔵迄赴し由なり。

安政4年12月20日

一、廿日。風なし少暖也。夜四ツ頃惣主立石の巻より帰る。御穀受取の都合。ことごとく調べたるよし。

安政4年12月21日

一、廿一日。暁より西北風にて雨降る。
惣主立又々諸事取極めの為とて。養賢堂へ馳登る。序に船中にて用ゆべき。不足の品々塩竈町より買求んとて。風雨を衝て合羽引かぶりて船を出すに。桂島前にて雨晴けれども。風はいよいよ烈しくなり。激浪幾度となく舳より

安政4年12月22日

一、廿二日。風吹き止まず。油井順之輔既に廿日に承りけれども。風波の為に留まりたるとて此日一同舟を出すに。沖合に至ればいやまし激浪。昨日にまさりて覚ゆ。予も始より此造舶の事に與かり。寒風澤へ往来せしこと。已に百二三十度に及べり。此度を以て第一の風浪とすべし。身にひきまとへたる。雨合羽のたゝまりたる間に潮水数升溜りたりし。四ツ過る頃寒風澤に至り。夜に入り風静也。佐藤新之丞・手戸玄吉。並養賢堂の喜兵衛来る。此喜兵衛は文政12年の頃。御城米船の水手して呂宗国に漂流し。暗厄利亜国の船に送られて清国に至り。廣東舟山台浦を経て。長崎に送り返されたる者也。西洋法の船故に此者をして試みさせしめんとて。学頭衆より遣されたるもの也。

安政4年12月23日

一、廿三日。
朝より晴なれども波立強く。
野蒜より艀下船来らず。四時頃宗主立。並森田九平・彦三郎来る。勘左衛門は清酒壱斗入拾五樽積入て。富治と共に来り。
其酒を悉く調へけれは。惣棟梁は兼て約せし如く。惣水手壱人に付て。米弐俵に金弐歩つゝを與へ。
新雇の者共へは。金壱分つゝを與ふ。難れ有と頓首して禮謝す。

安政4年12月24日

一、廿四日。快晴にて。
野蒜より艀下船漕来りけれは。水主惣かかりにて。之を船中に積入る。惣主立は又々湊御蔵の米を受取積出すべしとて。新之丞・常治其外水手弐人を引連て。石巻に赴く。此夜は水手一統旧例なりとて。鎮守明神の宮に通夜し。海上安全を祷る事也。惣棟梁はしめ。有合ふ人々夜に入て宮に詣て拝礼す。

安政4年12月25日

一、廿五日。快晴にて。西北の風そよそよと吹来けれは。舟よそおひを預かしめ具りたる故に。
小網あまた結び付て。繋り船にもやひを取り。水手とも手繰にして。朝五つ頃寒風澤を捲出し。掛田島の向ふなる。石濱崎のほとりに碇を下し。保命船傳馬舟を左右の舷に釣上て。
八時過る頃祝砲を数発して。帆を巻立て太洋さして走り出す。岸上には村中の老若男女充満て見送れるいと勇まし。
按針役は測量の間に机を安し。羅針を置て方向を記す。測量方は舵楼に登り。量程車を海中に投じ。三拾秒の砂漏を案じて之を量るに。船の走ること拾五間に及ぶ。則ち我一時に一里廿四丁を走るべきに當れり。之を第一測となす。
沖走りの時には潮の上下と。風の替る時にには幾度も。此法を以て測量する也。既にして船入島木の島を横に見て。宮戸島を乗過ぎ葉嶋をかはして、夜五つ時第二測をなす。30秒に18間を得たり。則一時に2里走るに當る。
四つ時より。桃生郡深谷に属する大曲村の沖。五尋半の處に碇泊す。此日行程3里12丁餘を走れり。祝砲3發して船中一統酒肴を賜はりて。開帆を祝す。夜に入り風静に星斗晴朗なり。
按に。東海通行の船は。順風にして烈しく吹時は。一時の間に四五里より六里を走るべし。横風を受けて間切り走るなれば一二里乃至三四里なるべし。一時に十里走るといへるは。すさまじき暴風にて。命にかけて走る程の事也。かゝる事は一年の内に数ふる斗りのよし。西書云軽風と云は。一秒時に十尺乃至十五尺に至る。烈風は廿五尺より。三十五尺に至り。暴風は四十尺より。六十尺に至る。此外に颶風・旋風など云は。言葉にも述がたき程の風にて。西洋の大舶も動すれは。覆没の禍に係る程の事也と云。

安政4年12月26日

一、廿六日。海天晴わたり。船上の霜は雪の如し。寒氣も殊に甚し。朝飯後より帆仕度して少し乗出し。石巻より艀下船の乗出るをも待けれども。彌増に西北の風烈しく遂に船は来らず。かゝる内に八つ頃より。沖合い眞黒に曇り南風吹来れは。スハ時ならぬ東南の暴風雨も起もするやと。水主とも危ふみ。若吹来らは折の浜にや乗下さん。賀続浦にや走り入らんと。評議まちまちなるに。夕方かけて西の山の端霽上がり。風西北に轉舶すすゝめて門ノ脇村釜の沖。十余丁の處に碇を下す。日暮る時より雪ちらちら降出し。風勢烈しく吹来り。動揺殊に甚し。然れども舶は固より堅固なり。乗たる人は三年来寒風澤島に勤仕して。水上を平地の如く心得たれば。誰一人舟心ある者もなかりし。夜八つ頃雪晴ければ水手共。悉く起上りて船上の雪を掻掃ふて又打臥しぬ。

安政4年12月27日

一、廿七日。暁より西風北に移り。波浪も起らん模様なれば。今日は艀下船いかがあらんと思ひけるに。
五つ過る頃小舟一艘漕来りて。只今御穀を積出すべきまゝ。御用意あるべしと注進あれば。即ち帆を揚て川口沖。十町斗りの處に進みて碇を下す。
既にして湊御蔵より米八百俵餘。二艘の舟に積入れて漕来り。外に荷直しといへる。米を積べき若者共弐拾人程。群り来りて曳々聲して積入る。此時惣主立其外悉く帰り来れり。
御船蔵役人矢野七右衛門・下役両人・御船升入菊地屋清十郎・武山屋八右衛門。其他附属の者共数十人。伝馬舟二艘にて来る。酒肴を出してこれをもてなす。
既にして御穀も積入畢りければ。夕七時四分戌亥の風にて帆を巻揚東をさして走り出す。第一測に二十間を得たり。一時に二里八丁を走るべし、風勢いたく盛になり渡ノ波の塩焼く濱を乗過て、巳午の方に針路を取り。御崎明神の岬を廻し。小竹濱生草島を過く。左の山下は折の濱とて。
今夜三月初度航海の時。国相芝多殿若老佐々殿、並松枝殿・学頭衆をはじめ。九十余乗組。一泊せし處也。夫より桃の浦・竹の浦・狐崎を過ぎ。田代島を右に眺め。網地島と小渕濱の間なる。鮫島と云ふ小島の側。四五町斗に帆を下す。深十五尋也。此日は行程五里三丁を走る。
日暮る後より風波静になりければ。惣棟梁より水手共に祝とて。酒樽一つを與ひ。測量の間も酒肴を陳らね打興して一酌す。

安政4年12月28日

一、廿八日。昨夜より風穏なりければ。夜明る頃より甲板の上に登れば。時しも紅日滄海より飛昇り。
田代・鮫島。鮎川等の怪巌奇壁を照し出し。遥かに西には蛇ヶ岳。白髭・不忘の山等。雪の色は恰も玉をのべるたる如く。麓には富士・牧山・三国山等。白沙に沿て翠を連ぬ。寔に壮観といふべし。
今日は式日なれば。惣棟梁主立をはじめ。皆々禮服して船魂の神を拜す。水手も同じく拜賀をなす。
五つ時四分に及んで。申酉の風吹起れば。水手共いさみ立ち。これこそ天より賜る便風なり。
いざ黒崎の岬を北に押廻せと。忙しく帆を巻揚れば。第一測に十七間を得たり。一時に一里三十二丁を走るべし。
此處はさしも名たる難所なれども。此日は歳の暮。極寒の節には。二日となき穏なる日和なれば。細波瀲艶として。湖水を渉るに異ならず。
鮎川の岸上に。数多の猿とも小猿を愛して遊び戯れ。峯の上には無数の野馬。友を呼て嘶き走る。いと興あり。
忽看る海中物あり。魚とも見へず。獣にもあらず。幾度となく波浪の間に出没す。あしかいふ物にやあらん。
船中いよいよ興に入けり。長渡島の東に當り。危礁乱立して激浪雪を散すが如き。此を犬磯と号す。夏に至れば通路の船。此間より針路を定て。單に走る處なり。舟人傳云。神代の時犬ありて。此處より泳き出し。下総国銚子の岬にかけ登り。初て一聲吠えたる故。其地を名付て犬吠と○すと。其説怪誕素より弁を待たずと誰も、此處より海底一道の巌石。犬吠に連り魚蝦これに依て。夥しく生育す。是以東海は他に勝れて大漁ありと。
其説或は然らん乎。船既に黒崎の岬をかはせは。金華山巍然として海面に現れ出る。麓圓かに頂尖り。實に巨鼈の宝珠を戴きて。浮み出たる趣あり。抑此御山は。天朝始て黄金を奉りたる霊山にて。霊験殊に著るしく。近きあたりは元より也。東海を渉る船々。皆押なへて偏に御山御山と唱ふるは。独此山の事なり。鮎川より渡る處を山雉び渡しと云。斜に廿四丁と云り。
両山相迫りたる迫門内なれは。潮の進退其早き處なれども。日和よけれは何事もなく。皆々舷に倚りて四方の景色を打眺む。
辨才天の祠・大金寺抔見ゆる處に至りて。水手とも手洗ひ嗽きて。升の内に白米を盛り。之を海中に撒て合掌して、拝礼す。
北に當りて太洋中に突兀たる島を。江の島と云。属島三つあり。東に有をおじ島と云。北に有をひら島とも笠かいとも云。何とも人家は無し。江の島には漁家七十軒斗りにて。大罪人を流刑する處也。遙の北に翠黛縹渺として海中にさし出たるは。本吉郡の諸岬にして。頂尖くして雪を被るものは氷の上山なり。嶐然として諸山の表に蟠りて。雪色最燦爛たるは五葉山也。皆々この壮観に目を縦まゝにし。彼を指し此を語る。
其ひまに早くも迫門を乗過れは。風勢山々に礙げられ暫しは帆足も定らず。元より北は水色薄萌黄にあらずして薄紺色をなせり。啻に深淺に係れるのみにもあらざるべし。風既に定まり深山泊の濱に添て。此を臨んで走り出す。
寄磯の濱を離るゝ十数丁にして。二ツの島あり。二股と名付く。此邊岩壁百仭崔嵬として峙ち。怪巌奇石は潮水来てこれに觸れ。萬馬の躍るに異ならず。風景誠に云んかたなし。此邊暗礁最多くして航海に熟せさる者は乗抜かたき難處也。二股と江の島の間は。二里餘も隔りたれども。此をば乗らず。寄磯の間の狭き迫門口を。帆足を繰り楫を轉じ、辛じて乗過たり。
四つ半頃より。申酉の風となる。第二測に二十五間を得たり。一時に三里十丁を走るべし。
日脚も既に八つに至り。第3測に三十間也。一時に三里十二丁に當る。水手とも今宵は出島に碇泊せんとしけれども。惣棟梁はかゝる便風に。などて船を進めぬ法や有る。楫も直させいよいよ北に舟を遣るに。舟の傾くこと十一度に及べり。七つ頃に至りて風勢次第に北に轉ず。此より太洋中に乗出し。二度三度も大間切に間切走らば。氣仙の地方に今宵の内に走り着くこと。難きにあらねど。山風の烈しく吹来る時節には。
水手とも地方を離れて。乗行ことを深く恐るゝ習なり。殊には何地までも。正しく指したる航海にもあらねば。あらぬ艱苦して夜走りせんも無益なりと。舳を返して大須の沖の荒灘に。深さ三十三尋の處に。麻の大綱を下して碇を下す。行程は八里三十四丁に及べり。
宵の内は波風高く動揺しきりなりけれども。夜半過る頃より稍穏になりぬ。
又九つ頃地震す。海中の地震ははじめに山に鳴りひびきて。海水下よりゆり上る様に覺るなり。

安政4年12月29日

一、廿九日。暁より天氣よく。風も次第に西の方に吹廻しかば去らば帆支度すべしとて。
金星東に登るや否や碇を引揚げ。東方白む頃おひ遣り出しの帆を巻立。順風なれば眞帆をも張て走り出す。
第一測に二十二間を得たり。一時に二里十六丁を走るへし。又日の出を測量するに。辰の九度より出る。既にして長面追波を左に見て。歌津の岬に船を進む。
四ツ頃に至り風少しもなき事小半時斗り。帆を張たるままにて洋中に漂ふ。これを帆係りと稱すとなん。既にして酉戌の風吹来れば。風上間切に走り出す。第二測量に十八間を得たり。一時に二里に當る。
午中に及て太陽高度を測るに。三十八度四十二分也。此よりして風は次第に。酉より申に移りさがと稱する風になり。進む事稍速し。第三測に二十二間半を得たり。二里八丁を走るべし。畫九半時第三測に二十二間を得たり。二里十八丁を走るべし。
船は次第に北に進み。見るうちに小泉大谷の大湾を過ぎて。七ツ頃大島と波路上の間に至る。
此地は塩場ありて。播州流の石釜にて。塩を煮るを以て其品頗るよし。此岬に岩井崎といふ。怪巌連り洞穴多く潮汐を呑吐して。鯨の潮を噴か如し。此あたり黒岩白岩などいふ。巨巌海面に突出し。又陰怪の暗礁ありて。最乗易からざる處なれば。此入口にて碇を下す。深は七尋也。行程は十里五丁に及べり。則ち大島波路上の村々へ。
案内の曳舟を命じければ。大島村の升人九兵衛と云もの。早くも来りて指圖をなす。島の者共珍しき。御船を始て見たる事なれば。我も我もと小舟にとり乗り押来りて。四拾五人に及ぶ。長磯村よりも十壱人弐艘に乗りた漕来り。船を北に曳入ること二十餘丁。暮過る頃大島の亀山と。松が崎村の間に至りて碇泊す。波路上村よりも弐拾人斗り曳舟に出たれども。間に合はずして歸りたりとて。
肝入與惣兵衛と云もの来りければ。曳舟の者共へ残らず酒を賜ふ。此邊は米價頗る貴き處にて。殆ど江戸と相類す。當時は金壱両に六斗四升に當るよし。其故に清酒は下さまの者は。猥りに飲得べきにもあらねば。殊の外喜べるさまにて。頓首して携え歸りぬ。
此處北は鹿折より。氣仙沼の湾を限り。東は大島の亀山高くそびへ。西は松ヶ崎より長磯の山に。屏風を廻したる如く打圍みたれば。波風殊に穏にして。家の内に寝たるが如し。
寒風澤を乗出してより。海路二十七里19丁に及ぶ。其内に風なくして帆係りせしと。曳舟にて曳入れたるは其数を除く。

安政4年12月30日

一、晦日。水天殊にすみ渡り。岩に連る村々は烟横さまにたなびき。松島辨天島など云るかたはらに。水鳥多く群れ遊ぶさま。眞に江湖の趣あり。
此松ヶ崎は舊の国老鮎貝殿の領地にて。此人ここに在住なれば。惣主立はふる懇意なり惣棟梁も今茲の5月。北の方を巡りし頃。打連りて見參せし人なれば。惣主立は船より下りてこれを訪ふ。又此村の升入角兵衛と云者の来りて申儀は。何角に御用の爲め。
小舟壱艘晝夜ともに指上置候まま。外にも指かかりし御用をば。御心置なく承るべし。
又片濱の組頭傳吉と申者の内に。風呂を燒かせ置候まま。御入り下さるべしと。ねんごろに申。殊勝の事也。
氣仙沼の湊は。僅に一里を隔てざれば。船大工太七弟甚四郎等、小舟に乗りて来り賀す。此太七は過る乙卯の年予に隨て伊豆の国戸田浦に往て。鄂羅(ろしや)人の造れるスコーネル船を見て。夫より浦賀の鳳凰丸横浜の朝日丸を觀畢り。江戸に至りて惣棟梁を。吹擧するの時に與かり。頗る軍艦の事に縁にし有るにより。寒風澤島に業を興す時より。太七を擧て大工の棟梁として。甚四郎をば世話役の頭となし。3年此船を働きたる。功また少なからざるより。御金を賜りて褒賞する。此者共もかくまで力を盡せし。御船の思はすも。我ふるさとに廻り来たれば。其喜はいはん方なく。坐に感涙を催したるも道理なり。
五ツ過ぎる頃より。氣仙沼は申すに及はず。唐桑・鹿折・赤岩・岩付・長磯・波路上・大島・松ヶ崎の村々より。拝見の爲とて。老若男女のむれ来ること。幾千人といふかきりもなく。船中の混雑譬るに物なく。これには人々殆と困し果たりき。夜に入り祝砲に。小筒6挺拾發つつ連發して。大砲を1發す。山海にこたまして。其響夥し。船中一統酒肴を賜ふて歳暮を賀す。

安政5年1月1日

一、正月元日。暁色殊に麗はし。水手とも八ツ時より起出て。乗初の式あり。
頗る古風にていと目出度し。其後に酒肴吸物など手を盡してとりならべ。献酬の禮あり。舟歌をうたへて祝をなす。其歌に
正月ひとよの初夢に。きさらぎ山の楠を。舟につくりしはやおろし。白銀柱をおしたてて。黄金のせみをふくませて。みなは手なはにことの糸。綾や錦を帆に掛て。宝の島に乗こんで。数の宝を積こんで。あなたの蔵におさめおく。初春のゆき緋おどしの。きせなりもみな小櫻となりにけり。夏は卯の花たきねの水にあらひかは。秋となりてその色は。いづもいくさにかづ色の。紅葉にまかふにしきかは。冬は雪根にそらたれて。おもふかたきを討とめて。長き其名をあげまきや。かぶとの星の菊の座も。花やかにこそ。おとし毛のつるぎは。むこにいたさず。弓は袋におさめけり。富貴の御代とそなりにけり。右の歌。壱つづの後にはやしあり。
目出たの。ソラわか枝も。イヱーさァかァ。ようのイヱーコノ。葉もイン。
後にすけるといへる言葉にあれとも。これは唄はず十分に。満るをきらふ意なりとぞ。
明はなれて。傳馬舟に水手とも打乗り。太鼓を打てかけ聲かけ。御船を三べんめぐりて。直に此地に御崎明神に参詣す。
悉く古法あるよし也。船中は一統に上下を着し。船魂の神及び諸神諸佛も禮拝して。新玉の春の目出度を賀す。
此日は天色拭ふが如く。仲春の風光の如し。珍しき日和なり。又々拝見の群り集るきのふの如し。
夕方より士以上は肝入方へ。水手共は傳吉方へ行て風呂に浴す。身体殊に爽快を覺ふ。
夜に入り。年始の御祝とて。一統に酒肴を賜ふ。各詩を賦し歌をよみ発句など作り。打興して思はず夜を更したり。

安政5年1月2日

一、二日。朝より天氣よく。波風最穏かなり。
五つ前より昨の如く。拝見のもの群り来りて引もきらず。
四ツ頃には。松ヶ崎邑主の夫人大勢にて參られ。船中のつれづれを慰めよとて。煮たる饂飩弐桶・帆立貝百斗り・豆腐百丁・漬物色々。其外珍しき飲食物。あまた取揃て贈り賜はる。
船中にても酒肴取ならべて。饗しまゐらせ。大に興に入りて歸らる。引續て御嫡子太郎平殿・御伯父勇之進殿も被レ参。
夕方に一峯といふ。俳諧行脚の物来る。江戸の生れにて。此頃氣仙沼に杖を留るよし也。さきに惣棟梁一面の交りあるよしにて。かかる粉忙の中にも。風流の情自ら止みかたく。昨夜口すさみたるを發句として。表六句を酒杯のひまに巻たるもおかし。

あら磯も波の音なく明の春静にわたる初船のさま 乾也一峯
山々も霞て今朝は賑やきにほのかに見ゆる遠の村里 鳳谷漸堂
續なから莚敷足ず月の影あふげば高く雁のむれあふ 谷明哲

安政5年1月3日

一、三日。繁霜雪の如く。日の出殊にうるはし。
此日は俗に不成就日とて。事始せぬ習ゆへ。御船は乗出すまじき旨。水手共かたく申によりて。素より逗留のつもり故。
夙より起て松ヶ崎より水を汲取り。又氣仙沼の初市日なれば。炭薪の類買求めて。数十日の用意事足りぬ。
朝五ツ頃松ヶ崎邑主。初野場の歸也とて參らる。此家にては旧例として。此日家來鐵砲を携ひ。小舟に乗出しておもひおもひに。水鳥を討て献る事也とぞ。打つついて御隠居か參らる。今年84歳のよし。容貌潤沢ありて。言語應接少しも老耄の態なし。矍鑠たる様子実に驚たり。當時弐拾四五歳の妾を置て、懐胎にて居るよし。珍しき事なり。
今日も拝見の者引もきらず。其内には乗組の人々。古き親戚もあり。知る人もありて。應接誠に煩しきを覺ふ。
八ツ過る頃より。松ヶ崎の居館にて招に應じ。惣棟梁・惣主立・大槻・古川・予と。5人にて參り。村落に薄茶出て。麦飯の馳走あり。風呂をたき髪を結ひ。其上には邑主は畫を好み賜ふて。紙筆とりならべて。各々席畫して樂しみ。暮々より酒宴になり。此地の名物帆立貝・みる喰・赤貝などいふもの。取揃て厚きもてなしに。夫人達まで出賜ふて。興しあふて醉を盡しぬ。
扨又今朝の野場に。出たる家の子供帰り来りて。門前にて数十発の鉄砲を筒拂し。得物の水鳥二三十羽。積ならべて邑主の見参に入まゐらす。其中より大小の鴨四羽を頒ちて贈らる。拝謝して暇申せしは。四ツ過る頃にぞありし。

安政5年1月4日

一、四日。晴たり。
昨日より出帆の用意備りぬれば。未明明ぬうちより祝砲数発して碇を抜く。
此處は水底は深き泥なるに。重さ百六十貫匁の洋法碇に。鐵の鎖を附たるを入置きたれば。此頃の大風にけり込まれ。之を揚げるに暫し間とりぬ。
かかる間松ヶ崎へ命じ置たる曳舟三艘に。弐拾人程取乗りて。もやいを附て御船を曳出すに。
風は少しもなかりけれは。又々四方より拝見の者共群り来り。中には曳舟に手傳ふ者多かりき。
波路上前にて碇を下ろし暫し休らふ。水手共申様は。南の方空の模様も曇候へば。南東の風吹来らは幸これに過ず。
直さま綾里の岬をかはし。唐桑の濱まで押渡らん。
舵をかはせと下知しければ。九ツ時七分に舳を。巳の十五度に向て走り出す。第一測に二十間を得たり。一時に二里八丁を走るべし。
夫より巳午にて針路を取りて。乗廻す。
素より此航海は。封間近海乗渡るべき御下知なれば。氣仙郡を境とする筈なるに。時既に立春の候に係り。風勢定りなき時節にて。大方は西北の大風。西南の烈風なるべき空曇る故。強て此時気仙へ下り登るべき日和無く。むなしく僻陬の地に数日を費すも。無益の至り也。天より吹来る風に任せ。南に帰るも亦宜なりと。
南をさして既に五六里も走りたる頃。黒雲次第に四方を覆ひ。風勢漸く南に移り。雪にても降来らんか。又は南東の大時化にや変ぜんかと。衆心危み疑ければ。暮頃より舳を東に転じ。太洋さして乗出し。綾里の岬に漕付んとす。
夜五時四分第二測に十五間を得たり。
四ツ過る頃少しく地方に寄るべしとて。又々西に舳を転ず。
扨かゝる夜走りの時は。最大事の乗前なれば。表廻りは舳にあり。楫取は楫車を取て艫に立つ。表廻りより面楫・取楫。よふそろと透間もなく呼合ふ事なり。
測量の間には按針測量の人々燭を點じて。船時計に方儀を按じ。時と方向を記し。
しょし我水手は常に地方を離れ。沖中に吹出さるゝを深く恐れ。
又地方には暗礁。伏沙有るを憚るゝ故に。夜は必よき程に沖に出しては地方によせ。又沖に出す故。行先はなかなか延め事也。
曉八ツ時風少しもなく暫し漂ひ。八半頃に。丑寅の風次第に吹来り。第三測に四十間を得たり。四里十六丁を走るべし。

安政5年1月5日

一、五日。明はなるゝ頃より。西方の霧次第に散じ。
五葉山・室根山雪色漸く鮮に見へ渡る。
御船は終夜洋中に往来せしに。昨夜東に乗り出したる處よりは。僅に数里の南に在りて。歌津の岬に向ひたるのみ也。
風も段々眞面に吹替れば。此風にて縦令金華山を廻し得るとも。相馬の岬に取くへし。去らは。始に定めたる如く。綾里を目かけて船を進めよと。
又々楫を転して舳を戌の廿度に向け。又子の十五度に移す。
かくして走ること一時斗り。九ツ半頃に及て。又々風は西北に転し。白波立て吹来れば。北に向ては走りかたく。又方向を未の十五度に転す。
元来我国の水手は。天度を知らず。地理もくらく。日月星辰は本よりの事にて。只に陸地の山々を目當とし。已れ已れの心得にて航海するの習なれば。萬一山のみえへざる處に至れば。神佛の應護を頼み。命の助からんことのみ。專一とすること故。冬分の東南風稀なる節には。いかなる便風吹といへども。洋中を走ることなく。又横風の烈しきに逢ば。舷より波を打込るゝ故。荷物をぬらし或は投棄て。此災を免るゝ事故に。常に地方にてもせり歩きて手間とり。石巻より僅に百八十里の海路を。一ヶ年に四度は最上。次は三度。次は二度位をもって常とする事也。
今日も始より意を決して。遠沖を走り抜かは。日の落ぬ間に金華山をも通し果べきに。無用の處を往来して。此にて終に日を暮したり。
月落て既に暗夜となれば。二股の迫門は乗入ることは為し難く。碇をここにや下さんと。深淺儀を投じたるに。四十五尋に余ぬれば。水手も遂にやむことを得ず。大勇猛心を起して。江の島の外に舟を進む。
八ツ頃より小雨降出せしに。半時斗りにて晴上り。星の光りも次第に明らかに。西北の風も左まて強からざれば。曉かけて金華山を大廻して。大磯の南にて東方はじめて白し。

安政5年1月6日

一、六日。天色。南より西にかけてくもり。西より北は山々霽渡りて。風よき程に吹来る。
第四測に二十間を得たり。一時に二里八丁に當る。
田代島を南の方一里余に見て走りぬれば。石巻は既に七里か外に有べし。牧山・蕎麦の神神取山等。水に浮て島の如し。宮戸・寒風澤も次第に近く見渡れど。逆風なればひたすらに。南より西にかけて走る。畫九ツ時。第五測三十間を得たり。三里十二丁を走るべし。
南に長くさし出たるは。岩城に近き請戸の岬なり。相馬の原釜は既に其中程にあり。扨此ままにて直に走らば。相馬路をも越へけれど。元より近海調練なれば。余に走り過しても。帰るべき順風なければ。無益に時日を費る故。八時少し前に。
名取軍閖上濱と藤塚濱の沖。一里斗里の處に碇を下す。底は十三尋にて。熊白と名付る地なり。熊白とは黒き細沙と。白き貝がらの交りたる也。暗礁には無き地にて。至極よきかゝり場のよし。波風も次第に静になれば。
翌は七種の祝なれば。碇泊の祝砲二発して船中に酒肴を賜ふ。
此航海二夜三日に走ること四十里十二丁に當れり。

安政5年1月7日

一、七日。朝より天氣よし。
沖かゝりなれば。七種の粥もなし。有合ふ餅など取集め。雑煮して式日の賀をなす。
五ツ半頃少々南風起りければ。帆を巻しとも風勢足らず。はかはかしくも走り得ず。幾へんとなく間切あるきて。暮過ぎ遂に宮城郡松ヶ浜の前に碇を下す。
此日相州浦賀の登り。同しさまに押ならんで間切しか。
是は明る八日の夕方。鰐ヶ渕にかかりたり。扨夜半過る頃に至り。又々風吹起れば。直さま帆を巻立て。曉かけて寒風澤の前なる。掛田島のならびに碇を入れ。ボート二発祝砲して夜を明す。
此航海往復日数十四日。何れもいさゝか障りなく。さまで辛き目も見得ずして。初度の乗筋日数十四日を経て。往復行程七十八里に余れり。
かくまで目出度帰帆せしは。是偏に我君の蒼生を恵ませ賜ふ。御徳の致すところ。且は塩竈一宮へ此御航造営のはじめより。幾度となく有難き御祷り。有ける應護なるべしと。船中一統感嘆に堪ざりき。

安政5年1月8日

一、八日。御船帰港の様子を見て。寒風澤に在合う役々は固より也。
水手の親族悦び合ふて来り賀する者。引きもきらず。互に無事を祝しぬ。惣主立は事の由を。養賢堂の学頭衆へ。委細に告奉らんとて。小舟に駕して走り登れり。
遂に御船おば石濱の崎に移して碇を下し。浦賀に登るべき仰を待つ。

この航海日誌は、是非、宮城県北部沿岸(牡鹿半島から気仙沼の間)の地図を見ながら読んでください。
「歌津が卯辰」だったり、「階上が波路上」だったり。仮名づかいや、旧字体等読み辛いですが、辞書を片手によむと面白いです。
長いので大変ではありましたが、私は結構楽しんで入力作業ができました。
気仙沼周辺の方は、「あーあそこね。」なんて、景色も目に浮かんで、楽しいのではないでしょうか。
この中で、「一時に四里十六丁を走るべし」なんて書いてあります。
西洋式の時間が日本入ったのは明治になってから。ここで言う一時は、1時間ではなく、昔で言う一刻のこと。およそ2時間のことですが、この頃は不定時法。日の出から日没までを六等分したのが、一刻ですから正確に2時間ではありません。1月4日(もちろん旧暦でしょう)立春ですから2時間より短いはずです。
一里は約3.93km。一丁(町)は(60間のこと。一間は約1.818mですから)約110m。
「一時に四里十六丁を走るべし」ですから、2時間で大体17.5km進んだことになります。時速で言うと約19km/hですね。
現在の船の速力はノットです。1ノットは1時間に1海里(1852m)進む時の速さだそうです。なので1ノットは約1.8km/h。今の単位では、開成丸の速力はおよそ10ノットといったところでしょうか。
この速さは、昭和49年に建造された、市営汽船「うらしお」とほぼ同じです。早いと考えるか、遅いと考えるか?同僚の“つよぽん”は「早い!」って即答してました。

開成丸のその後

開成丸は安政3年~4年にかけて、寒風沢山崎において建造された軍艦である。
安政4年12月25日、試航のため寒風沢港を発し気仙沼までの往復が行なわれた。
翌安政5年1月8日、無事寒風沢に帰港した顛末を小野寺鳳谷(篤謙)が、私記として記録したものである。
試航後養賢堂学田米をを、江戸品川に廻漕すること数航海の後、石巻に於いて解体されたと伝えられる。
嘉永6年(1853年)ペリーの浦賀上陸によって鎖国が破られ戦艦は急速に戦斗能力が要求されるようになり、外国船技術の導入によって開成丸の性能では時代遅れとなったことを、当時の識者は認めざるを得なかったところである。
また、開成丸を輸送船に改造しても、その構造が適当でなかった関係もあって、進水後2年にしてその姿を消す運命にあったことは誠に残念なことであり、仙台藩の苦しい財政の中であれほど盛大な開成丸の進水行事であったが泡となったわけである。
咸臨丸と比較した場合あまりにも短命であった。

開成丸調練帰帆図(仙台市博物館蔵)

開成丸建造の木札