ラッコ船

ラッコ船

海獣天国

千島からベーリング海峡にかけては、海獣の天国である。それは漁類にたいする食害の問題とも絡み、軽視できない存在である。海獣の種類も数も北洋は世界一と称せられ、ラッコとオットセイは捕獲が激しいため下り坂であるが、トド、アザラシ、セイウチ、ラッコ、オットセイなどは繁殖旺盛である。トドは北半球だけにすみ、海のギャングと呼ばれて大きいものは3メートルもあり、大挙して魚群を追う。択捉島には大繁殖場が点々とあって、一ヶ所に数百頭集り、数十メートルの断崖をはいあがって、ほえたてるもの凄さは、マドロスたちもふるえるという。晩秋には北海道の南岸まで進出する外海況によっては金華山沿岸まで出没するほどである。

オホーツク海はアザラシの海として世界一である。種類は10種をこえ、大きいものは500キロに達する。流氷に乗って南下し、夏から秋にかけては、岩陰などにひそんで漁場を集団で荒しまわる。セイウチはベーリング海域から南下しない。象のような牙があるので、“海象”とも呼ばれる。オットセイは明治44年、日、米、加、ソ連の四国保護条約締結当時、推算20万頭に減っていたが、現在(1975)は回復し350万頭と予想されていた。ラッコは乱獲のため衰退の一途にあり、条約で海上捕殺を禁じ、上陸地で数を制限して獲ってはいるが、いまや過去の動物となろうとしている。戦前、日本は中部千島を封鎖し、世界唯一のラッコの宝庫としてが、戦争で消滅した。

ラッコ船の遠洋漁業開始

わが国で遠洋漁業が発達した根本の理由は、沿岸漁業の行き詰まりと遠洋技術の輸入にあったと思いますが外国密猟船に対抗して、日本がラッコ、オットセイ猟を急速に発展させる必要にあったからと思います。
明治24年(1891年)及び明治26年(1893年)に米、英、露が北洋海域のラッコ、オットセイの捕獲条約を締結したため、外国猟船は千島列島を南下し北海道、金華山沖、塩屋崎沖の領海まで進出し操業するにいたりました。
日本政府は明治28年(1895年)ラッコ、オットセイ猟法を公布し、明治30年(1897年)に遠洋漁業奨励法を公布して対抗せしめた結果、わが海獣猟業は急速に発達するにいたりました。
外国猟船は日本猟船に太刀打ちができなくなって明治30年(1897年)頃には日本の沿岸にその船影をみないようになりました。
明治38年(1905年)に遠洋漁業奨励を全面改訂を行って奨励金の率を高め、北洋の開拓につとめ、日本猟船が急速に北洋に遠征するに至りました。
北洋3大猟場とは、露領ローベン島・コマンドルスキー諸島・米領プリビロフ諸島近海であった。
ここに明治30年頃に使用された小学国語読本があります。この教科書の中に次のように書いてあります。
「ラッコを捕獲する法は、その群棲する処に船を近づけ、其の水上に浮かぶを覘い、銃を以て不意にこれを狙撃するなり。唯その性甚だ怜悧にして、人の声を聞けば忽ち形を波間に没するを以て之を捕獲するには最熟練を要す。
ラッコは貴重な海獣にして、其の捕獲の利甚大なるなれども、わが国極北の寒海に産するをもって往古は邦人の之を猟するものなく唯北海道人及び魯西亜(ロシア)人等の捕獲を試みるのみなりしが、寛永年間、淡路の人、高田屋嘉兵衛択捉(エトロフ)に来りラッコその外の漁業を始む。」とあって小学校教育にまでラッコ猟の必要を強調していることがうかがわれます。
高田屋嘉兵衛こそが北洋漁業の先駆者であり、このための犠牲者であったと申されましょう。
宮城県ラッコ猟の推奨につとめた農商務大臣榎本武揚、黒田清隆の秘書で仙台出身の鈴木某氏が、協力援助を行ったことについて知る人が少ないようです。
榎本武揚は戊辰戦争当時「浦戸」とは関係の深いこともあって、心尽くしの一端だったかとも推量されます。

ラッコ船

ラッコの皮

ラッコ船上の様子

明治頃の塩竈港

ラッコ船の基地占守(シュムシュ)島

千島列島の最北端に位し、西岸は幌筵島柏原湾、村上湾と指呼の間にあり、東岸約6マイルの占守海峡を隔てて、カムチャッカの南端ロバトカ岬に対する。南西から北東へ稍長く30キロ、最大幅20キロ、面積38,875町歩。緩い丘陵が起伏して、高山がなく、四嶺山、象頭山、松村山、三塚山などすべて200メートル以下である。最大の別飛沼をはじめ無数の湖沼が散在し、これらを源に20余の大小河川がゆるく流れている。北岸の今井崎、国端崎の間は砂浜であるが、その他は海蝕による断崖で、多くの岩礁があるため、港湾としては幌円に面する片岡湾があるにすぎず、他に小舟を繋ぐところが、長崎、蔭ノ浦、村上崎、咲別、汐見台、白川などである。ミヤマハンノキを主体にタカネナナカマドを交えた林がつらなり、河畔には特有の柳が点在している。国有林の蓄積126万石があった。
この占守島は明治24年11月、片岡利和侍従が択捉島に渡って越冬、翌年大日本帝国水産会社の第一千島丸に乗って占守島にいたったのは、勅を奉ずる千島の調査として、この方面への関心を高める動機となった。
片岡侍従は松前丸で函館を出発、根室、色丹島を調査して択捉島に上陸越年した。25年5月、第一千島丸に搭乗、各島に立ち寄り、7月4日幌筵島の良港オットマイ(柏原湾)に入港、さらに対岸の占守島モヨロップに上陸、調査をおこない、8月27日軍艦磐城に乗じて根室に向った。
岡本監輔が東京第一中学校の教え子、茨城県人関熊太郎らと同志を募り、千島議会を創立、明治25年(1892)帆船「占守丸」を仕立て、千島開発を試みた。

ラッコ船の基地占守(シュムシュ)島の話

北洋での食料薪炭の供給基地は占守(シュムシュ)島であり、郡司大尉の援助に期待するものが多かったようです。
占守島は千島列島の最北端に位置し、西岸は幌筵(ホロムシロ)島柏原湾、村上湾と指呼の間にあり、東岸約6里の占守海峡を隔てて、カムチャッカの南端口バトカ岬に対する。占守島は南西から北東にやや長く30km、最大幅20km、面積38.875町歩、ゆるい丘陵が起伏して無数の湖沼が散在し大小の河川がゆるやかに流れています。
この占守島は明治24年11月片岡利和侍従が越冬し、明治25年茨城県の人で関熊太郎が千島議会を創立し千島の開発を試みました。この試みに一段と徹底した開拓を加えたのが郡司成忠海軍大尉と退役陸軍中将白瀬矗という人でありました。
郡司氏が明治26年3月20日東京隅田川を2隻の帆船とボート5隻をもって出帆し千島に向いましたが、岩手県白糠沖で暴風にあって大型帆船1隻とボート1隻、乗組員18人を失い軍艦磐城の救助され函館に入港し、平山堯三郎氏所有帆船錦旗丸に便乗択捉に到達、そこで函館の人、馬場禎四郎の雇船泰洋丸に移乗して、8月31日占守島に上陸。そして日本人最初の北千島越冬に成功しましたが、報効会の同志達の凍死等があって結果は悲惨を極めたということであります。
明治27・28年の日清戦争が終わると郡司大尉の報効議会は活動を再開し占守島の開拓に着手しました。
明治29年郡司大尉は同志とその家族をひきいて占守島に移住しました。同年報効丸と占守丸を建造しラッコ猟を開始しました。
移住者達は家畜を飼い、菜園を作り、缶詰工場を設け、小学校まで建て永住の体制を固めました。
明治33年頃同盟丸を建造し、内地ラッコ船40余隻に対し献身的な援助を行い北洋の父として信頼されていました。
明治37年(1904年)日露開戦当時郡司大尉は乗組19名と共にカムチャッカに渡りオゼルナヤで漁業に従事中住民に捕らえられ惨殺されたのであります。
郡司夫人の帰国を知ったラッコ船団はその報復を協議しカバイランを占領することになりました。

長南栄蔵ラッコ船日誌

明治38年7月30日
日本ラッコ船14隻協議し、カバイラン占領の目的をもって、緒戦としてレビラカを攻撃することとし参加緒船は次のとおり。金勢丸・三重丸・房総丸・天佑丸・大島丸・金比羅丸・一号千歳丸・二号千歳丸・東海丸・報効丸・洪栄丸・東贏丸・東奥丸・權現丸なり。
8月1日
午前10時我が船レビラカに接岸す。偵察のため山に登る。金勢丸外次々に上陸開始す。午後1時04分攻撃開始す。敵も又大いに戦う。午後4時40分目的の山を占領す。敵は抵抗しつつ後退す。日没近きため我が方下山するを見て敵猛射を浴びせきたる。金勢丸沖より掩護射撃を盛んに行う。我等当初の目的を達成すること叶わず。
8月2日
早暁離岸に成功、沖に出る。数名の負傷者あるも生命に異常なし。
8月20日
ペートルパウルスク沖通過。怪我人も殆んど全快す。
9月9日
占守島沖に到着。成忠夫人等一行を見送る。
9月19日
宮古沖に至り本年猟終了となる。

榎本武揚とラッコ猟

明治8年3月22日、榎本公使以下は国民感情を押えて日本の樺太放棄の代償として全千島列島の割譲を主張、いわゆる『千島樺太交換条約』が同年(1875年)5月7日調印された。その他オホーツク海及びカムチャッカ沿岸への出漁その他を認めさせた。後日、榎本の獲得したものはわが水産界に大益をもたらしたもので、その影響は今日にも及んでいる。
榎本は同年千島のことを編集し、5冊本としたなかにラッコ猟についても触れている。
明治9年2月27日開拓使判官に宛てた書翰中に『千島保護には軍艦を巡航させ、外国人狩猟者の領海侵犯は厳に防止されたい。
榎本助言にもあるように、千島に艦艇を派出し、また監視所を設置したが、何分にも広範囲なので、官憲も「臭上の縄を追うに異ならず」(「臘虎猟沿革」根室県)と、よほどあとになっても、お手上げであった。そしてラッコは逐年減少していった。
明治8年9月、開拓使は毛皮見本を各国に送った。それぞれ品評してくれたが、榎本が直接ロシア人からきいたところでは、日本は主にロンドン市場に出荷いているが、直接露都に出すのが利であるだろうとのことであった。
榎本は、家来の大岡金吾に命じて皮なめしの所へ弟子入りさせた。マスターはガメつく、染色秘伝授には1,000ルーブルと吹いているが、帰国のころまでにはモノにしてみせるつもり、染色技術の文献を得たので訳して送ると言う。
開拓使でも毛皮加工に清国人ををやとい、函館で伝習させたが、良品はできなかった。彼が帰国すると品質がおちた。どうも、毛皮加工は年季がいるばかりでなく、秘密が多いものらしい。大金の習得も尻切れトンボになったようだ。
明治26年(1843年)1月、榎本武揚は第二次伊藤内閣の農商務大臣となる。同年3月郡司大尉の千島壮途を援助し、明治28年にラッコ・オットセイ猟法を、明治30年には遠洋漁業奨励法を公布してえわがラッコ・オットセイ猟業の急速な発展をはかると共に、其の他の遠洋漁業をも併せて発展せしめんとした。

石浜船たで場跡

“船たで”とは航海が終ると船底を燻焼したものだが、それから転じて船の修理を意味する事になり「船たで場」は各地の湊々にあり、江戸時代は巨船の上架のため石畳が海中まで敷きつめられるなど諸設備がされていた。そして修理工場はたで場の船大工が行ったものだ。
浦戸の「船だで場」は本石浜にあった。明治維新に至り、蒸気船や西洋型帆船の建造の時代となって、白石商会の専用造船場として使用されてきた。
風波等のため現場は自然崩壊し、大正、昭和と数次に亘り護岸の改修が行なわれ、現在その跡型も認めることができない。
古老の言によれば二重堤防が築かれ千石船が横づけできるようになっていて、白石商会の倉庫が連なり直接荷揚げが行なわれていたという。東端に洞窟があり、二ヶ所の入口が見える。当時は陸にあったが現在その前面は海となっている。