千石船

千石船

瑞軒の道

仙台藩の買米の起源は、漠然と正宗の代、慶長の末か忠宗初世のころと推定されている。慶長14年(1609年)および同15年の史料に買米という語もみえるから、そのころからはじまっていたと考えてよい。この買米が、たしかに、すでに引用したところの「武江年表」や「米価記」にいうような大量の仙台米であるとしたら、そのような買米がつまり廻米になったものであろう。しかしそのような廻米は第二期にあたるもので、その第一期は藩主や藩士の江戸滞在用に、貢租米を運搬したことからはじまったと考えられる。それを1つの経済制度として組織したものが買米を運搬する第二期の、もしくは狭義の、廻米であったといってよい。

そのようにして経済行為となった廻米は、三代綱宗のころには、蔵米7~8万石、下々米(家中米・商人米など)7~8万石、合計15~6万石だったらしい。それが四代綱村の代には、貞享元年(1684年)で33万石、元禄3年(1690年)には31万石に達しているが、五代吉村のころには、享保15年(1730年)・16・17年に28万石台、19年には25万石となっている。後期の文化元年(1804年)から天保6年(1835年)までの例では27万石から10万石のあいだとなっている。これらを平均して当時は20万石程度は、仙台から江戸に廻米されていたことになる。

これらの廻米が仙台藩にどのような利益をもたらしたかについても、同じく藩政後期の例でいうと、藩財政収入の40パーセント前後がこの廻米による収益でまかなわれていたようで、重要な財源であったものと考えられる。
これらの廻米は海路、江戸におくられており、藩政の初期には、これらの廻米は気仙や遠島からも積みだされているし、中期には、荒浜・野蒜・寒風沢・塩竈・磯崎・石巻の港が廻米廻船の港として指定されていた。しかし、これらのうち、廻船の基地となったのは、石巻であった。仙台藩の経済は石巻・寒風沢から外へ開いていた。石巻には45棟の藩蔵があり、13万5千俵(約770トン)の米が収容できた。

当時、米を運ぶ川船=平田船は836隻、外洋航海の大型千石船=天当船も500隻からあった。800石積みという船もあった。藩の雇い船を御用穀船、民間船は渡世船と呼ばれて役料をおさめた“三十五反の帆を巻きあげて行くよ仙台・石巻”“船はちゃんころでも炭薪積まぬ、積んだ荷物は米と酒”このようにどれもこれも誇りに満ちて輸送に従事していたのである。

石巻や寒風沢を出帆した船は、はじめは常陸の那珂湊、ややおくれて下総の銚子で川にはいり、そこから内陸の水路と陸路を経由して江戸にはいった。鹿島灘や房総沖を航行する技術がまだ開発されていなかったからである。寛文11年(1671年)、幕府は伊達・信夫の城米を安全に江戸に輸送する目的で、川村瑞軒に水路の改良を命じた。瑞軒は、阿武隈川の水運を荒浜まで確実に通じ、荒浜から寒風沢に船で運び、房総沖を迂回して相模の三崎、または伊豆の下田に出て、そこから西南風をまって江戸にはいる航路を開いた。船は一升の米も損せずに江戸に達したという。

寛文11年以降は、仙台藩の廻米もまた、この“瑞軒の道”を通って江戸にむかったのであるが、しかしそれよりもだいじなことは、仙台藩の廻米ルートが、東廻り海運という、東北諸藩の江戸向け航路の一環に編みこまれてきたということである。また北上川は南部藩の江戸向け廻船の航路でもあった。津軽藩では寛永2年(1625年)青森港を開き江戸に廻米し、明暦元年(1655年)には秋田藩が土崎港から津軽海峡経由で江戸へ廻米し、寛文4年(1664年)には八戸藩も鮫港から江戸へ廻米した。こうして、仙台以北の奥羽諸藩が、東北の港を北から南へ東廻りにむすんで、石巻江戸航路に合流した。そのため、石巻は、東廻り海運随一の拠点港として、西廻り海運の酒田とともに東日本の海運経済の中心的役割を果したのであった。

この東廻り・西廻り海運のもたらした歴史上の意義は、まことに大きい。古くは新井白石が「奥羽海運記」でそのことについて論じ、これらの海運により、東北・北国経済が完全に全国経済網の一環に組みこまれることになった。

千石船(大和型荷船)

特定の船型をさして千石船というのは俗称である。古くはただ米千石を積む船があればそれを千石船とよんだことがあるにすぎない。しかし江戸時代になって千石積級の荷船(廻船)がごくふつうに使われるようになると、大型廻船を代表するという意味で千石積の船が1つの基準となり、いつか千石船の呼称が普及していったらしい。
しかし、今日、千石船の名で理解されているのは1つの船型であって、いわば和船の代表的船型といったものに限られている。しかし、これらの大船も、江戸中期以降はだんだんと姿を消して、弁才船の姿しか見られなくなって、今日では千石船=弁才船ということになってしまったわけである。
明治になると、新政府の西洋型帆船への転換政策が始まり、和船との区別をするため和船に対して日本型とか大和型とかいう名称があてられるようになった。これにならって今日では造船史のほうでも弁才船を称して大和型あるいは後期大和型という船型呼称で分類している。

明治初期の千石船(大和型荷船)

千石船の船箪笥

江戸時代の千石船名額:寒風沢の神明社に航海の安全を祈願し奉納されたものです。

和船の様式

江戸期の帆船の呼び名は、何石積、何反帆といわれるが、船体が日本型に定められて、その形態が標準化され、容積(石数)は、長さ、幅、深さ、の3者をかけあわせて、10立方尺を1石とする算出法が決められた。
たとえば100石級の敷長は全長の約7割、千石級(約150トン)は6割、2千石級は約5割というように、船の大型化につれて太くなる、船型に応じた敷長を定めていた。
このような後期日本型船は、鎖国時代の海運界の主力代表であったが、その航洋性の不備不足は悪天候、風具合に待避を余儀なくされて、航海日程を遅延させたのみでなく、暴風に遭遇すれば多くは難破した。これは船体構造が最大原因であった。
難破船の多い年は、仙台から下関までの間で1800隻にものぼった。天保13年(1842年)には9ヶ月間に実に500余隻の船舶が難破している。
次の表は、百石より千石までの主要寸法とその寸法比の例である。

容積(石)敷長(尺)幅(尺)深さ(尺)敷/幅敷/深幅/深
100石30.510.53.22.99.543.28
200石34144.22.438.13.33
300石36.716.552.227.343.33
400石3818.55.72.056.693.25
500石40.520.761.966.753.45
600石42226.51.916.453.39
700石4322.77.21.95.983.15
800石4423.57.81.885..43.02
900石44.524.58.31.825.372.95
1,000石4525.38.81.785.122.88

明治20年(1887年)に500石以上の木造船の建造禁止令が発布され、以後は西洋型帆船、鋼鉄船建造に依存することになり、250余年の大型大和船の時代が終結したのである。

帆の反数

三十五反の帆を捲き上げて、行くよ仙台石の巻
などと歌われるように、白帆は千石船の象徴であった、白帆つまり木綿帆は、国内生産が十分で千石船の推進力のすべてであった。
延宝年間さらに寛文9年(1669年)の記録中には、石数と帆の反数とが載っており、「和漢船用集」その他によると、次のようになる。

容積1反あたり石数
150石8反18.8石
270石12反22.5石
300石13反23.1石
450石16反28.1石
500石17反29.4石
690石23反30石
800石24反33.3石
1,000石26反38.5石

この場合、1反というのは帆を構成する最小単位の帆布1反のことであるが、長さには無関係である。1反の巾は2尺から3尺の間で一定していなかったが、大和型荷船では2尺5寸(76cm)巾のものがほぼ統一的に使われるようになった。ふつう千石積級では25反であるから、その総巾は約63尺(19m)、船巾の2倍以上もあり、長さの方も70尺位あった。

実績容積帆の反数
前期後期末期
10071011
200101414
300121616
400141817
500161918
600172119
実績容積帆の反数
前期後期末期
700182220
800192321
900202422
1,000212523
1,200232724
1,500262926

荷船(民間輸送船・廻送船)

帆の大きさ船の長さ深さ石目乗組人数
22端帆10尋2尺5寸5尋5寸7尺9寸1,057.61石17人
21端帆10尋2尺5尋5寸7尺7寸1,000石16人
20端帆10尋1尺5尋3尺4寸7尺5寸903.82石15人
19端帆10尋5寸4尋2尺7尺2寸799.92石14人
18端帆9尋1尺4尋2尺7尺1寸700.77石12人
17端帆9尋5寸3尋4尺5寸6尺8寸603.33石11人
16端帆8尋3尺3尋3尺6尺5寸503.1石10人
15端帆8尋1尺3尋1尺6尺1寸400.16石9人
14端帆8尋5寸3尋5寸5尺8寸364.1石9人
13端帆7尋3尺3尋4寸5尺7寸303.24石8人
12端帆7尋2尺2尋3尺5寸5尺6寸279.72石8人
11端帆7尋1尺5寸2尋1尺5尺200.75石7人
10端帆7尋1尺2尋5寸4尺9寸185.22石7人
9端帆7尋5寸2尋4尺8寸170.4石6人
8端帆6尋3尺8尺1寸4尺2寸112.26石5人
7端帆6尋5寸7尺9寸3尺9寸93.97石5人
6端帆6尋1尺6尺5寸3尺2寸49.9石3人
3枚帆25石

備考:千石船の大きさはおよそ次の如きものである。
長さ 80尺 / 巾 24尺 / 深さ 8.8尺
櫓数だけは判明しないが、日本丸のそれは百挺立千五石積とあり、櫓数は石数の0.64乗に比例している。